第401話 神様に拍手を打つのはなぜ?
2017/02/15
~ 伊勢神宮参拝記-3 ~
「拍手は、誰が、いつ、二拝二拍一拝って決めたの?」
「出雲では四回だった!」
先に「拍手」について書いたところ、何人かの方からこんなメールを頂いた。
そんなわけで、今回は拍手についての拙い雑感を述べてみよう。
「拍手なんて、食と関係ないではないか」と思われる方もいらっしゃるだろうが、そうでもないから、まあ聞いていただきたい。
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確かに、拍手は、一般的には二回、出雲、熊野、宇佐八幡は四回、そして伊勢神宮では八開手(八回)である。
二回拍手というのは、日本が占領されていた戦後、GHQの指導下で決まったらしい。
と聞くと、「エッ! GHQ?」と思ってしまうが、要するに、天皇=神道=軍国主義という思想を分断し、神道は一宗教だということを示さなければならなかったことから、二拝二拍一拝の作法が明確になったらしい。
「らしい」と言ったのは、当時のGHQの作業というのは裏面史であるから、実態はよく判らない。
例はちがうが、GHQは日本の文字も廃止し、ローマ字にしようとしたらしい。これも事実はよく分からないが、「これからはローマ字の時代だ」という戦後のころの新聞社説を見たことがある。そのときに、動植物辞典などはカタカナにしてしまったといわれている。たとえば、蕎麦をソバという具合に・・・。
さて、拍手であるが、「二拝二拍一拝」がいきなり登場したわけではない。おそらく天皇中心の国家になった明治に整えられた体系を参考にしたのだろう。その明治の体系もまた、それまでの伝統慣習を採集したものと思われる。おそらく岩倉具視あたりの仕事だろう。
では、その伝統慣習とは何か? というと、ほとんどの歴史参考書では、次の三点を掲げている。
① 『魏志倭人伝』に「手を搏ち以て跪拝に当つ」との記述がある。
② 『日本書紀』に「手を拍つ」との記述がある。
③ 『延喜式』に「神語、所謂八開手是なり」「跪き手を拍っこと四度」の記述がある。
とはいっても、特に「拍手学」みたいなものがあるわけではないから、後は自分で考えてみたら、というわけである。
だから、考えてみた。
① 『魏志倭人伝』には、「大人と会うと、手を搏ち以て跪拝に当つ」との記述が
ある。
素直に理解すれば、貴人に敬するとき、手を拍ち、跪く。それが弥生時代の人たちの慣習であったようである。
ただし、『魏志倭人伝』には、もう一つ記載がある。「大人と道で会えば、跪き、両手を地につけ〝アイ〟と言う。」
手を拍つ場合と、この〝アイ〟と言う場合は、どう違うのだろうか?
実は、この〝アイ〟という言葉は私の故郷の佐賀弁である。「はい」という意味であって、訛って「ナイ」とも言う。
「アイ」も「ナイ」も今でこそ廃れているが、私の子供のころ大人は普通に使っていた。
そういえば、昔は日本各県を案内する雑識集には「佐賀では、『それを下さい』と言うと、あるのに〝ナイ〟と返事をされる」という紹介が必ず載っていて、それを知った大学の友人にからかわれたものだった。
それはともかくとして、後者は明らかに道(外)での挨拶である。たぶん、「元気にしているか?」と声をかけられ、「アイ」と返事をしているのだろう。
それと比較すれば、前者は宮殿のような所で正式に拝するときの拍手する姿が想い浮かんでくる。それが「手を搏ち以て跪拝に当つ」の記載である。
かくて、「拍手の源流は弥生人にあり」というわけである。
② 『日本書紀』には、天皇即位のとき「手を拍つ」との記述がある。
690年、推古天皇の即位式のとき、中臣大嶋(?~693)が寿詞を読み、忌部色夫知が剣と鏡を奉った。
ここでも儀式の際、拍手が行われているが、注視したいのは中臣大嶋の役割である。
中臣氏というのは、645年の「大化の改新」で中大兄皇子と共に歴史に踊り出た中臣(藤原)鎌足(614~669)に始まる。しかし、この中臣氏の素性はよく分かっていない。作家の司馬遼太郎や多くの学者たちは、「中臣氏というのは対馬出身で、占いなどに従事した家系だ」と言っている。
ともかく、そのころは中臣一族の中の英雄鎌足も亡く、鎌足の息子で、後の大臣藤原(中臣)不比等(659~720)はまだ若い。だから、中臣一族を背負っていたのは、鎌足の従弟(中臣許米)の子の大嶋であった。彼は、内政・外交に大活躍し、最初に「神祇伯」に就いた人物である。
ところで、文中に「中臣(藤原)鎌足」とか、「藤原(中臣)不比等」と記したのには意味がある。
実は、中臣一族は鎌足の直系を藤原氏、それ以外の中臣の人間を中臣氏とするよう分けたのである。かような分別策というのはたまにあることだが、中臣一族には特別な深謀があった。
すなわち、藤原氏は政治と仏教を担当し、中臣氏は神道を担当し、併せて日本を支配しようとする野望である、と思想家の梅原猛は分析している。
それを受けて私は、一族分別戦略を練ったのが鎌足で、実行したのが中臣大嶋と、藤原不比等かと推定している。
とにかく、中臣大嶋は初の神祇伯に就き、遅れて登場する藤原不比等によって藤原貴族時代が始まるのである。
そんな背景から、日本古来の伝統である「拍手」を引継ぎ、制度化したのは中臣大嶋とみて間違いないだろう。
③ 『延喜式』大嘗祭で「跪き手を拍っこと四度」「所謂八開手是なり」の記述がある。
『延喜式』(平安中期)の編纂は藤原時平・忠平兄弟、全50巻から成る。
内容は、巻1~巻10は神祗官関係の式、巻11~巻40は太政官八省関係の式、巻41~巻49はその他の官司関係の式、巻50は雑式である。
うち、巻7には践祚大嘗祭の式が記述されていて、「跪き手を拍っこと四度」「所謂八開手是なり」とある。
また、『内裏式』(平安初期)には、奈良時代の元旦受群臣朝賀式では、跪いて三十二回手を拍つという形式だったとある。
二つの記事は同じことである。すなわち四度×八開手=三十二拍手となる。
どうやら、奈良・平安時代には回数の取り決めがあったようである。
また、民俗学者の折口信夫は、「宴会」「酒宴」の「宴=ウタゲ」について、元々は「拍ち上げ」という礼拝を意味すると述べている。つまり、平安時代の饗宴「大饗」では、正客が正席に着くと、列座に侍っていた人たちは礼拝の拍手をしたというのだ。
これらから拝察すれば、
1)日本独自の慣習かどうかは不明ながらも、拍手の源流は邪馬台国辺りにあると思われる。
2)以来、貴人に対して拍手をするのは、かなり広く行われており、
3)最も重要な儀式では八開手を何度行うかなども定められたようである。
4)そして、平安時代までの貴人への礼儀慣習が、鎌倉時代あたりから神への礼拝にまで進んでいったことは、たいていの学者が述べていることであるが、その理由については、不思議なことにどこにも記述がない。
あればご教示いただきたいところであるが、たぶん武家が主役の時代になると公家の記録が軽視されがちになったせいもあって記載がないのだろう。
つまりは、奈良・平安の貴族の時代が幕を閉じ ⇒ 鎌倉以降武家の時代になると、衣・食・住はじめあらゆる形式の変化が起こった。これが武家による革命である。
この大変化は、〝食の視点〟をもって歴史を観ている小生にとっては、理屈抜きに分かる感じはする。
たとえば、
① 椅子式 ⇒ 座式、
② 古代食 ⇒ 和食、
③ 箸の縦置 ⇒ 横置、
④ そうした流れの中で、拍手は 貴人 ⇒ 神様となったのであろう。
そして、おそらく拍手の回数については、『延喜式』にある重要な儀式では〔八
開手×何度〕とあるものの、一般人の間では特に定まったものはなかったろうと推定する。
それは、日の出を拝するときのような真剣な祈りには数回の拍手。または感極まって祈るとき、「さあ、やるぞ」と行動開始を込めた祈願のときは勢いよく一、二回。あるいは力士の土俵入りのように神様にご覧いただきたいときは堂々と美しく拍手をしていたのかもしれない。
それらが明治になって採集されて整理され、そして戦後に二拝二拍一拝が執行されることになったということで、いかがだろう。
とにかく、たいていの人は、礼をして、ポンポンと手を拍っていると、しみじみと〝日本人〟を感じるだろう。それが不思議なところである。
神社には、拍手ばかりではない。鳥居って何? 狛犬って何? 御朱印って何?などなど日本の謎がたくさん見え隠れしている。
それにしても、「宴(うたげ)」が「拍ち上げ(うちあげ)」に由来するとは、目から鱗とはこのことだ。
そうすると、見えてくるものがある。宮廷の宴で腕を揮っていた料理長膳氏(かしわでシ)の姿だ。「拍手」を「かしわで」というのは、彼を称えてのことだろうだろうか!
《絵:五十鈴川に架る宇治橋と伊勢鳥居》
・柱と鳥木があって、貫に楔があるのが伊勢鳥居の特徴です。
《注意》
・紀州の熊野神社を出雲国系と述べたのは、熊野神社は元来、出雲国に在った神だからです。
・宇佐八幡の四拍は別の理由がありますが、ここでは省きます。
・「拍手⇒かしわで」、ここから「柏手」と書くこともあるが、それは誤用とされている。
〔文・絵 ☆ エッセイスト ほしひかる〕