<コンビ二創業戦記・別伝>「DCVS回想録」第34回
2017/01/24
≪その他のエピソード≫(その1)
今回は、これまでに書き残した幾つかのエピソードに付いて、書き添えておきたいと思う。
一つは、ローソンの「Jリーグ・オフィシャル・スポンサー」に関してである。
<Jリーグ・オフィシャル・スポンサー・時代(1993~2004)>
『Jリーグ革命の歴史・20年』
今年、2013年5月、Jリーグは発足20周年を迎えた。
日本サッカー協会が、「プロリーグ化・準備検討委員会」を設置して、具体的にJリーグ構想を検討し始めたのは、1989年(平成元年)であったという。
奇しくもこの年は、サンチェーンとローソンが対等合併し、「DCVS=ダイエーー・コンビニエンス・システムズ」として、新たにスタートした年であり、何かしら深い因縁を感じるのである。
当時は、「サッカーのプロリーグなど成り立つのか」、との空気が強かったという。
そうした時代環境の中で、Jリーグ正式スタート前の1992年(平成4年)7月に、ローソンが、数ある希望企業の中で、一業種一社を原則とする「Jリーグ・オフィシャル・スポンサー」となる選択をする。
今にして思えば、これは極めて先見性のある勇気ある決断であったと思う。
翌年、1993年(平成5年)1月から、ローソンは、「Jリーグスタート応援キャンペーン」を、大々的に展開し始める。
Jリーグはスタート時、8府県計10クラブに過ぎなかった。
まだ海のものとも、山のものとも知れなかったのである。
それが20年後の今日、2013年(平成25年)には、30都道府県の計40クラブに拡大し、さらに来年、2014年(平成26年)には、『JⅠ』、『J2』の下に、『J3』が新設され、新たに10チームが増える予定といわれる。
これで、日本全国・各都道府県に、一つのクラブチームが出来ることになる。
このことは、日本のスポーツ文化にとって、ある意味で、革命的な出来事である。
勿論、Jリーグも、これまでにいろいろな試練を経験している。経営難に陥ったり、消滅したチームもあった。
Jリーグにとって、この20年間は、日本の困難な時代・「失われた20年」と、完全に重なるからである。
その試練や困難を、先見性に富む創立理念の貫徹と、長期的な視野に立った戦略、逞しい行動力で、見事に乗り切り、Jリーグの今日がある。
Jリーグの革命的貢献の第一は、日本のプロスポーツ界に、「地域密着の理念」を根付かせたことである。
創設当初から、旧態依然たる学校スポーツや、企業スポーツとは全く異なる新しいスポーツ文化を創造し、地域に貢献することを「理念」として、高々と掲げてきた。
従って、Jリーグ各クラブは、ホームタウンを持ち、地域に根差したスポーツクラブとして、地域社会と結び付き、地域と共に成長・発展していくことを貫き通してきている。
この理念の徹底した追求と実践が、サッカーフアンのみならず、地域の人々から、幅広く熱い支援を受ける構造を作り上げたのである。
従来の日本のプロスポーツは、プロ野球に代表されるように、企業の広告塔というイメージが極めて強かったから、チームに都市名を冠するJリーグ方式には、「広告効果がない」、との大きな反発があったという。
しかし今では、Jリーグの「地域蜜着の理念」は、国内のスポーツ界に、深く定着しつつある。
むしろプロ野球が、広島カープや横浜ベイスターズ、北海道・日本ハムファイターズ、埼玉・西武ライオンズなどのように、地域との結びつきを重要視するようになっている。
そのほか、野球の「独立リーグ」や、バスケットボールの「bjリーグ」のように、Jリーグの理念に共鳴した競技団体も生まれてきている。
Jリーグの第二の貢献は、選手の競技力を、飛躍的にレベルアップさせたことである。
Jリーグスタート当時は、ヨーロツパのトツプリーグで活躍する選手はほとんどいなかったのだが、今日では、世界レベルの海外組選手が、日本代表チームの主力メンバーとなっていることからしても、そのことは十分に評価できる。
つい先日、サッカー日本代表は、来年のブラジルでのワールドカップ出場を決定し、日本中が熱狂に包まれたことは、まだ記憶に新しい。
いまや、サッカー日本代表は、野球の『さむらい・ジャパン』や、女子サッカーの『なでしこ・ジャパン』などと共に、国民的な関心の的となっているのだ。
Jリーグが、転換期にある日本社会に、革命的なイノベーションをもたらしていることは、誰人も否定しえない事実であろう。
私自身のJリーグとの直接の関わりを思い起こすと、次のようなことであろうか。
ーー1992年(平成4年)7月ーー
*ローソン、『Jリーグ・オフィシャル・スポンサー』となることを決定。
ーー1993年(平成5年)1月ーー
*ローソン全国店頭で、『Jリーグスタート応援キャンペーン』を開始する。
ーー1993年(平成5年)5月ーー
*Jリーグ・第一年度・開幕。
開幕記念パーテイに出席し、川渕チェアマン、ラモス選手らと記念撮影。
<川渕チェアマンと> <ラモス 選手と>
ーー1994年(平成6年)3月--
*ローソン、『Jリーグ・スーパーチャンス・キャンペーン』開始。
1300万通の応募あり、大人気となる。
この年8月、ローソンは5000店舗達成、歴史に残る記念イベントを次々と開催した。
ーー1994年(平成6年)5月ーー
*『Jリーグ・オフィシャルスポンサー研修会』(川奈ホテルにて開催)に参加する。
川渕三郎・Jリーグ・初代チェアマンより、「Jリーグの理念と戦略」を聞く。
日本のサッカーを、世界レベルに高めるための革新的な理念と戦略を、熱く情熱を込めて語る。
視野が広く、現状分析と未来像、それに至るプロセスの描き方が、具体的で、非常に説得力があり、引き込まれた。
強い感銘と深い共感を覚える。
<第1回Jリーグ研修会案内状>
<第1回Jリーグ研修会出席名簿>
翌日は、オフィシャルスポンサー全社を交えての懇親ゴルフ会が開かれる。
私は川渕チェアマンと同じ組でラウンドする。
川渕さんはシングルの腕前、プロでも苦戦するというあの名門・川奈ゴルフコースで、確かスコアは『74』だったと思う。
私は残念ながら、『百獣の王』・ライオンであった。
川渕チェアマンは、「私と1年間ゴルフを付き合えば、必ずうまくなりますよ」、と言葉をかけてくれたことは忘れられない。
実に爽やかなスポーツマンで、明朗・快活、豊かな人間性を感じさせる好感度の高い人物であった。
この人が指導者なら、「Jリーグは、必ず成功するに違いない」、と確信を抱いたものである。
<当日一緒にラウンドした川渕チェアマン、深井さん、野林さんと筆者>
ーー1994年12月(平成6年)12月ーー
*『’94Jリーグ AWARDS』 パーテイに出席する。
<’94表彰概要>
<Jリーグチーム団旗のミニチュア>
ーー1997年(平成9年)12月ーー
*『’97Jリーグ AWARDS』 パーテイに出席する。
<’97案内状>
<ゴン中山選手のスピーチ>
このような、Jリーグの着実な発展と、日本のスポーツ界に果たした大きな変革と貢献に思いをいたす時、ローソンが、Jリーグ ・オフィシャル・スポンサーの地位を、10年前、2004年(平成16年)、まさにJリーグ伸び盛りの時期に、自ら降りたことは、ローソンのために惜しみて余りあることであり、誠に残念なことであったと思う。
目先の成果だけを追い求める短絡的な視野からは、根の浅い小手先の策しか生まれないものである。
私には、Jリーグ理念と戦略は、コンビ二の長期戦略と全く適合するものであり、これまでにも相互に共栄進化の道を歩むことが出来たであろうし、これからもまた、アジアを含む世界規模での展開を推進することが、十分に可能であろうと思われるからである。
その意味で、Jリーグは、ローソンにとって、もっともっと大きな力となり得たに違いない、と確信するものである。
私のJリーグに対する思い入れはそれほどまでに強いのであるが、死んだ児の歳を数えてみても、甲斐なきことかもしれない。
以上で、Jリーグの項を終わり、次号では、二つ目として<ローソン5000店を祝う会・記念ゴルフコンペ>を、そして三つ目として<上場記念・21世紀と共に『ローソン感謝の夕べ』>、四つ目に<ローソン野球部>について記し、この稿を閉じたいと思う。
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