第222話「意味がなければスイングはない」

     

食の思想家たち二十一、村上春樹氏

 

 うなぎというのは不思議な雰囲気をもった食べもので、「うなぎ屋に入り、うなぎを注文して食べる」という一連の手順を踏むだけで、そこで何かひとつの思いが完結したという、一種儀式的な感触がある。そういうどことなくいわく言いがたいところも心地いい。

 これは村上春樹さんの「うなぎ」というエッセイであるが、これを読んだとき「上手いなあ」とつくづく感心した。

 なぜ上手いか?

 よく美味しさを表現するとき「◎◎がほどよく効いていて・・・、それでいて決して○○がジャマにならず・・・、△△とあいまって・・・」なんて、まるで天才ソムリエが評するような台詞を素人までが口にする今日であるがゆえに、世界の村上はそんな陳腐な手法は使わない。うなぎを蕎麦に差し替えても差し支えないような普遍的なことを述べているところに感心する。

 試しに、差し替えてみよう。

 蕎麦というのは不思議な雰囲気をもった食べもので、「蕎麦屋に入り、蕎麦を注文して食べる」という一連の手順を踏むだけで、そこで何かひとつの思いが完結したという、一種儀式的な感触がある。そういうどことなくいわく言いがたいところも心地いい。

 それじゃ、懐石料理や中国料理やフランス料理に、こうした儀式的な感触があるかというと、それはないだろう。蕎麦、うなぎ、おでん、寿司、天麩羅なら、ありそうだ。それじゃ、後者に共通する感触とはいったい何か?

 どうやら、それお江戸生まれの単品料理にあるようだ。村上さんが述べたように、江戸の単品料理というのはそういう不思議な雰囲気をもった食べ物だと思う。

  ところで、村上さんは音楽評論『意味がなければスイングはない』を著している。本の題名は、ジャズ・ピアノ奏者デューク・エリントン(1899~1974)の「スイングがなければ意味がない」をもじって付けてあるが、この場合はジャズにおけるリズムではなく、「あっ! いい感じ」というようなこと、あるいはどんな音楽にも通じるグルーヴのようなものだとしている。

 そのグルーヴとは、「優れた本物の音楽を、優れた本物の音楽として成り立たせているそのような〝何か〟」であるとも述べているが、村上さんはそうしたグルーヴ(=意味のあるスイング)を常に追い求めているからこそ、江戸の単品料理のグルーヴも察知したのではないだろうか。

 参考:村上春樹『村上ラヂオ』(新潮文庫)、村上春樹『意味がなければスイングはない』(文春文庫)、

「食の思想家たち」シリーズ:(第222村上春樹、219新渡戸稲造、201村瀬忠太郎、200伊藤汎先生、197武者小路實篤、194石田梅岩、192 谷崎潤一郎、191永山久夫先生、189和辻哲郎、184石川文康先生、182 喜多川守貞、177由紀さおり、175 山田詠美、161 開高健、160 松尾芭蕉、151 宮崎安貞、142 北大路魯山人、138 林信篤・人見必大、137 貝原益軒、73 多治見貞賢、67話 村井弦斉)、

〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる