第595話 北京・貴州紀行1 

      2019/10/12  

~ 倭人の故郷 ~

 小石川後楽園に隣接する所に日中友好会館がある。そこで雲南省シーサンパンナの少数民族衣食住展が催されていた。といっても、傣族、布郎族、哈尼族、拉祜族、瑶族、基諾族の民族衣装が中心で、食部門などは写真による紹介だった。
それを観ると、馴れずし、竹筒飯、粽、米線、焼き筍、包み焼、青海苔、納豆・・・、現在の日本人にも馴染みのある食べ物ばかりである。
これらから見ても、倭人(日本人)のルーツは長江上流域の四川・雲南・貴州省だという説が理解できるというものである。

往古、長江上流域一帯には、、巴、徙、邛都(以上四川省)、滇、昆明(以上雲南省)、夜郎、且蘭(以上貴州省)等の複数の王国が存在し、そのうちの幾つかは倭人の王国であったという。なぜ倭人の国と言えるのかというと、『論衡』という古書に「成王時、越常雉を献じ、倭人暢を貢す。」とあるからだ。
成王とは紀元前1100年頃の周の王。その成王へ「暢」すなわち薬草霊芝を献上したのは倭族の蜀国(四川省成都市)であり、南方の越国も白雉を贈ったというのだ。そしてこの倭族の起源地は雲南省の滇池辺りだといい、水辺の野生稲の人工栽培に成功させたともいわれている。
だが、やがて周の治世が弱体化していくと、中国は春秋戦国時代に突入し、その戦火の中から眠っていた諸国が角を出してきた。その一つに長江下流の呉(江蘇省一帯)があり、越(浙江省一帯)があり、さらに楚(湖北・湖南省一帯)があった。呉王は周の王族争いに敗れた者が建てた国であったが、その地の人々は倭人であった。王も地民の風俗にしたがって断髪、入れ墨をして倭人として活動した。しかし最終的には呉は南の越に敗れ、その越も楚に滅ぼされ、長江流域の倭族や越族は難民となって四散した。
その倭族の一部が北上して日本列島の北部九州に水田稲作の技術をもって移住してきて、倭国を建てた。越人のほとんどは南へ逃れたたが、一部は遅れて日本列島にもやってきて、越というクニを作った。この日本列島にやって来た‘Y染色体ハプログループO’たちのことを‘弥生人’とよぶようになった。
今日の展示の傣(タイ)族は貴州省北盤江流域で夜郎国を形成していたが、「傣族」という呼び名は8世紀以降からである。かつては「滇越」と呼ばれていたらしく、もともとは越族か、あるいは倭族かもしれないといわれている。
ともあれ、彼らは共通して高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗を有しているいわば兄弟のような民族であった。
こうした古代史を崎谷満はY染色体から解明した。すなわち、Y染色体ハプログループO1b1/O1b2系統を長江文明の担い手とし、長江文明の衰退に伴って、O1b1および一部のO1b2は南下し、残りのO1b2は西方及び北方へ向かい、山東半島、日本列島へ渡ったという。それは紀元前220年以前のことであった。

この度の第三次北京プロジェクトでは貴州省六盘水市も訪問の予定に入ってる。そこは紀元前の幻の夜郎国であり、あるいは倭人の故郷の地であるのかもしれない。そこでわれわれは一体何を感じとることができるのだろうか?

〔文・写真:平林さんがお気に入りだった雲南米線 ☆ 江戸ソバリエ認定委員ほしひかる