第747話 絵本「そば好きチビちゃん」

     

  店主にちょっとしたお願いがあったので、下北沢の「十割蕎麦処 くりはら」を訪れた。
  何年ぶりかだったが、相変わらずの人気ぶりで、ちょうど私たちで満席になった。他の卓には男女三組、家族連れ二組が食事を楽しんでいる。
  私たちが座った前のテーブルでは30代後半ぐらいのママさんと幼女がお蕎麦を食べていた。そのママさんの姿がなかなか個性的だった。長い髪をソフトクリームみたいに高く結わえていたが、背の高い人だったのでよく似合っていた。女の児の方は前髪を一直線にカットしてあった。たぶんママさんの手によるものだろう。その児はよくおしゃべりし、よく動き、よく食べていた。
  その女の児が食べている蕎麦も一人前みたいだった。ママさんに尋ねてみると、大盛を母娘で半々に分けたという。当店の《ざる蕎麦》は200g、大盛は300gであるから、女児分は150gになる。歳を訊くとまだ2歳児とのこと。驚いていると「この児はお蕎麦が大好きなんです」とママが言い、その児もコックリと肯いた。しかも大好きというだけあって食べ方も2歳児とは思えないほど上手だった。児童用の木椀に、ママさんが汁を少し入れてお水で割る。その児はお椀の汁に箸で上手につかんた蕎麦を付け、チュルチュルと食べる。ときには汁だけ飲み干して「飲んじゃったァ♪」と言って椀を振りかざしたりする。と、ママさんが黙ってまた汁を入れて水で割ってくれる。その間、女の児は汁を付けずに蕎麦を啜ってニッコリと笑い、ときには私たちの席までやっくる。なので、グータッチしてやると、ジャンケンと思ったのか、手の平をパーにして、「ジャンケンポンしちゃった」とママに報告にいく、といった具合。お蔭で蕎麦を待つ間が退屈しない。
  そうしているうちに、私たちの卓にも料理が順に運ばれてきた。《玉子焼き》《平飼い鶏利休煮》などに、常陸秋そばの十割《ざる蕎麦》。ここは前から薬味は「一味唐辛子」だったが、今も変わらない。蕎麦を啜ると蕎麦と一味の香りが吸い込まれていく。
 《平飼い鶏利休煮》は落ち着いた自然の味だった。最近は鶏を放し飼いにして自由に育てる法が増えているという。だから美味しいのだろうか。
  と思っていると、女の児がまた私たちの所へやって来た。今の若いママさんたちは幼児でも個人として尊重し、本人の自由さを認めている人が多い。さぞかし個性的な子が育ってゆくだろう。
  やがてお昼の時間が過ぎた。お客は一組二組と帰り支度を始めた。個性的な髪型のママさんも支払いのために席を立った。するとその児は卓の下に潜り込んで、落ちていた蕎麦1本を拾って口に入れた。そしてその児は私の顔を見てニッと微笑んだ。アッという間の動きだった。
 随筆家の幸田文は「麺類は残さず食べなさい」と言っている。長い物はたくさんあるときは美しいけれど、一本二本がクネクネと残っているのはあまり気持のいいものではないという幸田文の美学からだ。まさかこの児がそのことを知っているはずもないが、お蕎麦が大好きなんだろう。
  その児は戻って来たママの脚にしがみ付いた。その可愛い顔は「ママ、大好き♪」という幸せ感に満ちていた。ママさんはすっと抱き上げて、私たちに黙礼をし、おチビちゃんは私たちにバイバイして帰って行った。
 私も、ほとんどのお客がいなくなったので店主への依頼事を済まし、お店をあとにした。

下北沢駅までブラブラと歩いていると、思い出した。たしかエスプレッソの店があったはず。前に来たときと道が違っていたから分からなくなったので、スマホで検索したらまだあった。「ベアポンド エスプレッソ」という店だ。
  一気に啜る蕎麦も美味しいけれど、チビチビ含む濃いエスプレッソも美味しい。その香りのなかで、先刻の個性的な「そば好きチビちゃん」のことを思い出したが、「まるで絵本でも見ているよう時間だったな」と思い出しても可笑しかった。

〔エッセイスト ほし☆ひかる〕