第819話 「つなぎ」考
2022/11/18
高遠行=3
信州大学の井上先生から興味ある話をうかがった。
内容は、つなぎの技術は、新島繁説より早まるかもしれないとのことだった。
つなぎの開始時期については、拙著『新・みんなの蕎麦文化入門』でも紹介したように、次のような時期が言われている。
・本山萩舟説:1624 ~43年ごろ
・植原路郎説:1684年ごろ
・新島繁説:1728年ごろ
井上先生のお話はこうだった。
『大峯葛城嶺入峯日記集』を見ると、道祐親王(聖護院門跡:1670~1691)が入峯のとき、1687年吉野山に到達し、穀断の御作法をする前日に赤飯と並べて「鶏卵蕎麦切」を食している、とのことだった。
道祐親王というのは、後西天皇の第七皇子で、あの天台座主公弁法親王(1669~1716:第六皇子)の弟である。
この公弁法親王という方は、『蕎麦全書』で「深大寺蕎麦の風味は他とちがって美味しかった」と紹介されているので、蕎麦通の間では馴染みの方である。
そして、後西天皇の次の天皇は、後西天皇の弟である霊元天皇という方が継いでいるが、この方もわれわれソバリエには馴染みの方である。というのは、この天皇が臣下の冷泉為久に蕎麦を賜ったため、為久は御礼として「寄蕎麦切恋歌」を献上したと伝えられており、江戸ソバリエ協会では、この歌を江戸ソバリエ・シンポジウムで琵琶曲として披露したことがあった。
ここで需要なことは、これらお三方の宮廷人がお蕎麦を食している史実が在るところである。
室町時代は寺社の僧たちがお斎や点心料理の後段として麺(蕎麦切も)を食べていたことは拙著や講演などで度々述べている。そうしたお蕎麦を後世(江戸)の「蕎麦屋の蕎麦=町方蕎麦」に対して「寺方蕎麦」というが、現実は寺社の僧ばかりではなく、宮廷の貴族など、いわば上流階級の人たちも食していたから、「室町蕎麦」とよぶべきかと思う。
さて、井上先生の『大峯葛城嶺入峯日記集』であるが、私も道祐親王の名前とともにその存在は承知していたが、まだ『日記集』に目を通していなかった。
そこで、開いてみると確かに「赤飯」とともに載っていた。
ただし、「鶏卵・蕎麦切」と記してある。
これはどう理解すべきか。「鶏卵・蕎麦切」か、それとも「鶏卵蕎麦切」か、ということになる。なぜなら古文では「・」を使わない。だから原本は「鶏卵蕎麦切」と記してあったはずである。それを編者が「鶏卵」と「蕎麦切」のことだろうと判断して、親切に「鶏卵・蕎麦切」と訳したわけである。
このような例は、史料を見ていると多々ある。なぜなら編者や訳者は古文の専門家であって、蕎麦の専門家ではないから、こういうことになる。したがって、それを補うためには編者や訳者に歴史観がなければならない。
そうではあるが、訳は別として、道祐親王本人は「鶏卵・蕎麦切」の意で記録したのだろうか、それとも「鶏卵蕎麦切」の意で述べたのだろうか、どちらだろう。後者だとすると、このころに鶏卵ではあるが、つなぎの法があったことになる。
ここで思い出すのが、朝鮮の僧玄珍が小麦粉をつなぎにすることを奈良の東大寺に伝えたという本山説である。一般では、本山はその証拠を示していないということで退けられているが、あんがいあり得る話かもしれない。なぜなら朝鮮は麺史においては日本より先輩であるからである。
また、蕎麦切甲州説というのがある。尾張藩士で国学者の天野信景が雑録『塩尻』(1704~11)の中に「蕎麦切は甲州よりはじまる、初め天目山(棲雲寺)へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売に米麦の少かりし故、そばをねりてはたこ(旅籠)とせし、其後うとむを学びて今のそば切とはなりし」とあることはよく知られている。この「その後、饂飩を学びて、今の蕎麦切となる」とはどういう意味だろうか。饂飩の打ち方を真似て蕎麦を打つようになったというだけでは、あまりにも単純な解釈のような気がする。であればこの一文は、「初めは蕎麦を練っていた」というのは、麺のことだろうか、それとも蕎麦掻きていどだったのだろうか、もし麺だとしたら、上手くつながらないので、饂飩を参考にして、小麦粉をつなぎにすることを学んだ」とは考えられないだろうか。
こうした事例を考えてみると、江戸蕎麦の二八つなぎは突然生まれたのではなく、前史、そのまた前史あってのことということになる。
つまり、朝鮮の僧玄珍の小麦つなぎ説、甲州天目山の饂飩説、あるいは道祐親王の鶏卵つなぎ説もあるのかもしれない。
そのうえで、「歴史は、原点から遠い地域ほど、ある特徴をもって純化する」という法則によって、江戸で二八蕎麦が完成したのであろう。
渡来蕎麦⇒室町蕎麦(寺方蕎麦)⇒江戸蕎麦(町方蕎麦)
この度の高遠行の成果は、この「つなぎ・考」だったのかもしれない。
(『そば文学紀行』作者 ほし☆ひかる)
写真:井上先生構想の「蕎麦博物館」