第851話 深大寺水車~寺方蕎麦水車:考

      2023/07/26  

☆深大寺水車
 令和5年度の深大寺そば学院が開講した。受講生は11期生となる。講座は蕎麦栽培と、蕎麦打ちと、座学などからなっているが、私は座学「寺方蕎麦」の講義を継続して担当させてもらっている。
 私の講義は、『蕎麦全書』と『江戸名所図会』に書かれている「深大寺蕎麦」を重視してすすめている。
 「寺方蕎麦」については、私なりの基本というか総論的な目はもっているが、当然新しい情報も入るから、毎回新たに準備する。
 今回も深大寺門前辺りに水車小屋があったという史料を発見したので下段のように加えてみた。
 また、『江戸名所図会』の「深大寺蕎麦」の絵は有名で、編者の齋藤幸孝と画家の長谷川雪旦が取材のために訪れたときの深大寺住職によるご接待とされている。その時期を私は1815年か16年の秋と推定しているが、このご接待について研究することも大事だと思う。
 『あるいは蕎麦全書』には、「風味がよい」とか「形が少し違っている」などと記してある。このことについて栽培の視点から考えてみるのも面白いと思う。

 さて、今回の新情報というのは、清水徳川家の広敷用人(大奥の取次役)村尾正靖(嘉陵)の江戸近郊の紀行文『嘉陵紀行』(1812~35)のなかに記載されている、深大寺を訪れたときの挿絵だった。
 見て、驚いた。
 挿絵をご覧になって、すぐお分かりになられる人もいるだろうが、江戸ソバリエの皆さん、とくに江戸ソバリエ寺方蕎麦研究会の皆さんが大変お世話になっている浅田様の「門前」の地なのである。
 さっそく、浅田様にご連絡したが、その前にご紹介したい史料がまだある。

 先ずは、天保12(1841)年の『深大寺本寺及末寺分限帳』に、「門前地借四軒 内水車壱ヶ所此地代金壱両」とあるという。これをどう読み解けばよいか。
 私は以下のように解釈する。
 山門の前辺りも深大寺境内である。だから深大寺は四軒に土地を貸している。そのうちの一軒は水車とともに一両で貸している、と「水車」を明記しているところに注視したいと思う。なぜならこの水車は深大寺の水車だからこその明記であると思う。また、村尾嘉陵が見た水車も、『分限帳』記載の水車である可能性は高い。

 さらに、別の史料がある。
 明治 7(1874)年5月、神代村深大寺字寺山4064番地に滝柳伊右衛門という人が関係する、水輪1丈5尺(約4.5m)、搗臼 8 個・挽臼 1 個の水車が精穀・製粉していて、それは「滝柳水車」と呼ばれていたという。
 どのくらいの大きさの水車かというと、現在バス通り沿いに水車館があるが、そこの水輪は約4m、搗臼5個、挽臼1個であるから、それよりやや大きかっただろう。
 また、滝柳という姓氏を姓氏辞典で確認すると、深大寺元町を本拠地とする氏族のようである。さらに深大寺作成の年表に「1841年、滝沢政五郎、狗犬一対寄進」とあるから一帯の豪農であったかもしれない。
 ところで、「字寺山4064番地」であるが、それは現在の調布市深大寺元町 5-13付近」すなわち「門前」の浅田さんの住所である。
 そうすると、『嘉陵紀行』の水車、『分限帳』の水車、「滝柳水車」は、みな同じ物であるとみとよいと思う。そして明治になってわざわざ「滝柳水車」と名付で呼ばれるようになったのは、豪農の滝柳伊右衛門が深大寺から譲り受けたことなとが考えられる。しかも元「深大寺水車」の「滝柳水車」は昭和初期ごろまで稼働していたという。

 そこで、浅田さんにお会いした。
 「水車も、滝柳さんという名前も記憶がある」とおっしゃる。
 浅田さんは昭和30年の写真を見せながら、説明された。
 写真の昭和30年は、「門前」さん(写真左側)が蕎麦屋を始めた年、当時はお向かいの「嶋田屋」さん(写真では右側)と二店しかなかった(現在は二十余店)。
 その門前さんの少し先に一本の溝らしきものが参道を横切っている。これが水車用の水路で水は右から左へと流れていた。その左側先は急に崖状になっていて、その落差で水車が回っていたという。
 ただし、現在訪ねても、水車も水路もない。加えて、写真にはなかった新たな水路(川)が流れ、福満橋(昭和60年)ができている。昭和30年の写真では、水車用水路の少し先の二本の柱が立っている所に、新たな水路ができたように見えるが、実は暗渠だったのが明るい世界に顔を出してということらしい。
 福満というのは、深大寺を開創した満功上人の父親だと伝えられているから、父福満を経なければ、満功上人開基の深大寺へは行けないという意味で橋が架けられたのだろうか。

 ともあれ、これまで縷々申上げたのは、深大寺というお寺が水車を有していたということを示したかったわけである。
 そしてその蕎麦粉で打った蕎麦切が『江戸名所図会』の「深大寺蕎麦」に描かれているように、齋藤幸孝と長谷川雪旦が深大寺住職にご接待されて(1815年,16年)食したのでろう。
 深大寺のご接待は、寛文年間(1661~73)の川柳棒の手を馳走に見せる深大寺」にもみられるが、私はこの川柳を注目している。というのは、寛文年間(1661~73)というのは寛永年間(1624~44)に「正直蕎麦」、寛文年間に「慳貪蕎麦」など、日本に、江戸にやっと蕎麦屋という外食屋が誕生したころである。というのに、深大寺ではすでにご接待蕎麦が行われていたのであり、もしかしたらそのころから深大寺水車は回っていたのかもしれない。
 そう思えば、深大寺の寺方蕎麦は、齋藤幸孝・長谷川雪旦が訪れる以前の約150年の歴史を有するものとも考えられる。

 さて、最後に付記しておきたいことがある。
 冒頭で述べたように、深大寺そば学院は、蕎麦栽培と、蕎麦打ちと、寺方蕎麦の講義から成っている。栽培蕎麦に関しては貴重な深大寺在来蕎麦がある。収穫した蕎麦を馳走に見せる棒の手の技の研究もすすめたいものである。また寺方蕎麦の歴史や概論を聴講できるのは当学院をおいて他にない。
 いずれにしても江戸蕎麦以前の中世日本の蕎麦を考える所として、深大寺はまことに特異な存在であると思う。
 そのことが八十九世住職や浅田さんたちが「深大寺蕎麦学」を提唱されていることだと思う。
                          

 写真:現在の深大寺在来蕎麦(8㎜×5㎜)ぐらい

             〔深大寺そば学院 ほし☆ひかる〕