第860話 佐賀「あけぼの」の膳
2023/10/07
昼間の日差には夏の名残を感じるが、朝夕は早くも秋の気配のする10月の初旬である。
久しぶりに佐賀の老舗旅館「あけぼの」で食事会を催した。
玄関に祀られている「あけぼの宝冠恵比寿」とともに、女将さんも「お久しぶりです」と歓待してくれた。
佐賀の街角に在す恵比寿像の数は日本一だといわれ、市内だけで800体以上はあるらしい。その一つが「あふけぼの恵比寿」であるが、宝冠を載せた恵比寿は珍しいらしい。
さっそく、2階の部屋へ案内された。
床の間には素晴らしい軸が掛けてあった。
すぐに今日の膳の「組肴」が運ばれてきて、ご覧の通り美しく並んだ。
始めに箸を付けたのは、秋を思わせる《渋皮煮》だった。
組肴 銀杏菊の白和え 鯖の棒寿司 小芋の田楽 牛肉の紅景煮 渋皮煮
長芋ヨーグルト漬どんぶり和え
続く「造里」は、白身の《間八》が美味しそうに輝いていた。昔々30代の若かりしころ、浜松町の鮨屋「勘八」に、ある医師とよく行っていた。その医師は《勘八》が大好きで、食事の山場に《勘八》を食べ、締めにもう一度《勘八》を食べる人だった。《勘八》は《間八》とも書くが、漁獲量が少ないから料亭や鮨屋に出回る高級魚であった。以来、私も好きになっていた。
烏賊は新鮮で、とろり感が美味しかった。烏賊や蛸など軟体動物を日本人はよく食べるが、そのためか烏賊、蛸は庶民の食べ物になっている。
しかし、「組肴」の《牛肉の紅景煮》といい、「造里」の《烏賊大景》といい、この店は料理名に「景」という字を使ってある。紅い牛肉や、大きな烏賊の姿を景色に見立てているのだろうか。
造里 間八 鮪 烏賊大景
卓に運ばれてきたときから漂っていた松茸の香りに、50歳代のころを思い出していた。そのころ長野県山形村の蕎麦畑のオーナー制に仲間と参加していた。
ある年のことだった。翌日は蕎麦刈りということで、民宿みたいな旅館に泊まっていた。客は、登山者やハイキング客がほとんどだった。その日、民宿で松茸を売っていた。2本で8000円、市場の半値だと主人が言ったので、清水の舞台から飛び降りるつもりで買って帰った。一度、松茸三昧をしたかったからである。仲間は「バカだな~」と笑っていたが、数日してから、仲間の一人が「後で考えてみたら、俺も買えばよかった。あれだけたっぶり食べれば悔いはないだろう」と言ったことがあったが、その通り、よい思い出になった。
それから、「あけぼの」のこの土瓶が美しかった。土瓶蒸しというとたいていが素焼きのような器が出てくる。あれは唇に触れるとザラつくし、箸の滑りも悪い。やはり食器は磁器にかぎると。
江戸時代、磁器の伊万里焼が大人気になった。蝋燭の灯りしかない当時の家屋では、とくに白磁の食器は美しく衛生的だったことが、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読むとよく分かる。
吸物 松茸の土瓶蒸し
果物の料理というのは野菜料理とはちがう華やかな美味しさがある。《カレー》に林檎を入れるのもそうであるし、先日食べたばかりの《グレープフルーツ冷掛け》もそうだろう。今日の《無花果山椒煮》も甘く幸せな味覚だった。
替皿 無花果山椒煮
トマトで煮てあるから《暁煮》であろうか。御献立には「料理長:森永幸則」と記してあったが、この料理長は風景画家のセンスをおもちであろうかと思ったりした。
強肴 牛タン暁煮
《南部揚げ》というのは珍しかった。聞いたことはあったが初めて食べた。胡麻がきれいだった。小麦粉か、片栗粉、卵白、それに胡麻を付けて揚げるらしい。南部地方(岩手県)の料理だが、料理長の「森永」という姓は佐賀に多くある姓であるんら、何で岩手なんだろうと思いながらただいたが、胡麻は肉料理よりもっと訴求力のある美味しい料理だった。
揚物 太刀魚南部揚げ
後段は、薩摩芋ご飯と味噌汁だった。江戸時代は春・夏は蛸を使った《桜飯》、秋・冬は《薩摩芋飯》が人気だったと『名飯部類』という史料に記してある。「あけぼの」のそれは薩摩芋の量が控えめだったから、とても美味しく食べやすかった。
飯物 薩摩芋とご飯
留碗 味噌仕立て
ところで、今日の食事会は、両親の法事として妹たちと共に過ごしたのであった。それを思うと優しい口当たりの《焙じ茶》の本当の由来は《法事茶》ではなかったのかと思ったりした。
そんなわけで、最初から最後までの美味しい料理で、両親の供養も果たすことができたのではないかと思ったりした。
甘味 ほうじ茶葛プリンの黒蜜掛け
さて、冒頭に申上げた床の間のお軸であるが、実はその字が達筆すぎて読めなかった。なので帰り際、女将に尋ねたら「無功徳」と読み、京・相国寺の名僧の字だといい、この旅館にお泊りになられたこともあるという。
相国寺といえば、寺方蕎麦発祥の寺院といっても過言ではないから、ソバリエの私にとっては、ありがたいお軸である。
それに、「無功徳」という言葉なら聞いたことがある。
自ら「功徳、功徳」と言うていどなら功徳なんか積んでいない、という具合に、目立つこと、際立つことを戒めた言葉らしい。
故郷佐賀に帰ってきたのは久しぶりだったが、こういう素晴らしい言葉と出会うことができるのも〝故郷の力〟であるとつくづく思った。
ほし☆ひかる
(特定非営利活動法人 江戸ソバリエ協会理事長)
(2022年農水省認定 和食文化継承リーダー)