第864話 村井弦斎と大隈重信

     

☆食育の人・村井弦斎 
   知人の尾沼さんから、10月から小平のガスミュージアムで『村井弦斎展』が開催されますよと教えていただいた。
   村井弦斎・・・、何となく気になる人物である。
  弦斎は、新聞に連載した小説『食道楽』が大人気となったためか、小説家というより食通、美食家として知られるようになった人物である。とはいっても明治後半の昔のことである。今となっては「知る人ぞ知る」であろう。
  と思っていたところ、たまたま平塚の平塚公園を通ったとき、「弦斎まつり」というのが開かれているのに出会って、今も話は生きているのかと驚いたことはがある。あとで調べて見ると、その公園は村井邸の跡地だという。地元の人たちによって食文化の一旦が守られていたのである。
   そんな彼に、私が関心をもったのは、むろん蕎麦である。
   小説『食道楽』には630種ものレシピが紹介されているが、主として洋食を家庭にという方向であった。しかしそのうちにちゃんと蕎麦が入ってるところが嬉しい。新蕎麦の挽き立て一番粉を卵つなぎで打つと美味しい蕎麦になるとあった。
   そして彼は、人生終盤になると、美食とは真逆の断食と健康について追究を始め、御嶽山などで修行僧のような生活をしながら蕎麦を食しているから、やっぱり気になる人物なのである
   そんなことから、「村井弦斎は気になる人物だから、始まったら行きます」と尾沼さんにご返事申上げたところ、「私もお付き合いしますよ」とおっしゃってくださったので、ガスミュージアムで待ち合わせた。
   私は西武新宿線花小金井駅からバスに乗ったが、車内は混んでいた。下車寸前になって尾沼さんから「一緒だったのですね」と声をかけられた。 

  ミュージアムはバス停から数分だった。レンガ造りの建物が素晴らしく、赤レンガが真青の秋空と対比してとてもきれいだった。
  敷地内に入ると、一人の男性が作業をされていた。尾沼さんはその人に声をかけられ、ご紹介してもらった。その方はミュージアムの学芸員で「村井弦斎展を企画開催されたということだったが、実は尾沼さんは『江戸楽』の記者さんで、過日この方に取材したばかりだという。
  それから、贅沢にも学芸員さんの解説付きで館内を巡ることになったが、お話をうかがって、村井弦斎の業績みたいなところがよく分かった。
  それは『食道楽』の人気が時代を動かしたということだった。
  どういうことかというと、明治政府の脱亜入欧政策から、世の中は洋食一流、和食二流の風潮が訪れたが、その前段階として和洋折衷料理である《牛鍋》《とんかつ》などが先ず人気になった。だがそれは店で食べる料理だった。そこへ『食道楽』が「洋食を家庭で作ろう」と呼びかけた。
   その影響から、明治末期から大正にかけて様々な料理教室が開き、嘉悦や日本女子大など学校の教科設置につながったのだという。
   また、現在「食育」の大切さがいわれるが、実は「食育」という造語を発したのはこの村井弦斎であった。それを知って私は、弦斎は小説家なのだから、理科系的な「断食と健康」を追究するより、むしろ教育分野に尽くしてほしかったと思った。弦斎が主張していた「知育・徳育・体育より、食育が先き」は正しいはずだから、その食育とは何かを明示してほしかった。

☆大隈重信の台所
   弦斎は友人尾崎藹吉の妹多嘉と結婚した。弦斎も多嘉も大隈邸に出入りしていたが、大隈重信から見れば多嘉は、兄弟のように仲が良い従兄尾崎卯作の娘であった。だから弦斎夫婦は大隈に可愛がられた。
  余談であるが、火坂雅志の『美食探偵』という小説がある。大隈重信が消えてしまうという事件を弦斎が探偵となって解決するという話であるが、弦斎と大隈重信の交流の深さから発想されたものであろう。
   とにかく弦斎は、17歳年下の愛妻多嘉に料理を作らせ、それを小説として連載を続けた。だから『食道楽』の人気は、いわば実地に基づいた夫婦二人三脚の賜物であったわけである。
   ところで、ガスミュージアムは二棟あった。もう一つの館ではガスを中心とした台所の歴史展示がなされていた。
   そのなかの団地のキッチンは覚えがあるからを思い出を振り返るようであったが、目玉は弦斎が出入りしていた早稲田の大隈邸のガスレンジであろう。話によると、ガスレンジの国内第一号は不明であるが、大隈邸のそれはかなり早期であったらしい。
   私は、大隈重信の佐賀の実家の台所を見たことがある。幕末のものと想うが、台所は竈と流し台から成っていた。
   料理史というと、食べ物史に重点がおかれるが、実はそれを作る台所がどうであったかが重要である。
   それを述べるために、佐賀藩の城下町にあった佐賀藩士大隈重信の実家の台所〔写真右〕と、江戸町人の長屋の、台所とはよべない狭い「調理場〔写真左〕の写真を見てみよう。

   *〔右〕:武家の台所。広い。竈がある。水道と直結した流し台がある。立って料理をする。
   *〔左〕:町人の料理場。狭い。竈がある。水道がないため水瓶と流し台がある。座って料理をする。
   上について多少注釈を加えると、
   ・地方の武家の台所は広いが、都市の町人のそれは狭くとても台所と呼べるようなものではない。
   ・火はいつでも熾すことができるから、竈は場所・身分関係なく設置できる。
   ・問題は、上水道である。飲み水は、湧き水、地下水、相応しい川から、上水道でひかなければ利用できない。京阪や城下町は上水道が設けられているから、城下町の大隈実家は水道完備、江戸町人の長屋は上水井戸から汲んで来て、水瓶に溜めて、利用している。武家と町人の差はあるものの、水道は通じている。その点、写真はないが、地方の農家は農業用水路が優先されるから、共同の流し場を利用して料理することになる。
   ・ちなみに西日本の台所は立って、料理するが、東日本は座して料理する。
   かくて、台所事情は、とくに昔は差があることに留意しなければならない。

☆武蔵野うどん
   村井弦斎の食育、大隈重信邸の台所は、大いに勉強にった。
   さて、お昼どきである。尾花さんが「武蔵野はうどんですよ」と言って、「甚五郎」というお店へ案内してくれた。
   うどんは太くて硬かった。太いから腰を通り越して硬いのだと思いながら、〝硬い〟と〝腰〟のちがいを認識した。
   私の故郷ではうどんは柔らかいもの、しかし尾沼さんは「私はこれ(武蔵野うどん)です」とおっしゃる。郷土料理というのは慣れるのに年数を要するという。だから二人とも正しい。
   ただ、不思議だったのは帰宅してからも硬かった武蔵野うどんの後味が心地よいのである。これは何だろう。味覚の課題が一つできたと思った。

江戸ソバリエ協会 理事長
和食文化継承リーダー
ほし☆ひかる