第878話 白磁光明物語 蕎麦猪口編、完

      2024/01/18  

四、江戸の蕎麦猪口のこと

 蕎麦汁を入れる器を「蕎麦猪口」という。
 この「蕎麦猪口」という字の、「蕎麦」は日本の言葉であり日本の字である。しかし「猪口」の方は朝鮮語のChongqing(鍾甌)の音「チョク」を日本の漢字に当てたものである。であるのに、「そば猪口」という具合に、日本字の方を平仮名で書いて、外国語の方を猪口と日本字で書く人がいるが、本来なら「蕎麦チョク」と記すべきである。だが、名詞は漢字で書くという日本文のあり方にしたがって、この稿では、「蕎麦」はとうぜんながら、「チョク、チョコ」も日本字扱いにして、「蕎麦猪口」と表記する。
 ただし「蕎麦猪口」とよぶようになったのは明治になってからで、それまでは単に「猪口」といっていたが、この稿では「蕎麦猪口」の方を使う。
 余談だが、蕎麦についても「江戸蕎麦」というようになったのは2003年に江戸ソバリエ協会が使ってからで、それまでは単に「蕎麦」、あるいは「更科」「砂場」「藪」などの店名や、またはその店のある町名でよんでいたことと似ているのかもしれない。
 
 さて、私たちは《ざる蕎麦》を食べるとき、笊に盛られた蕎麦を箸で数本摘み、それを蕎麦猪口の中の蕎麦つゆにちょいと付けてツツツッと啜って食べる。これが【江戸蕎麦】であり、ひいては【日本の蕎麦】の標準である。
 麺というのはもともと中国で考案されたため、主に近辺の東アジアで食べられているが、このように麺と汁が別になっていて、付けて食べるのは日本だけだが、この《ざる蕎麦》がいつからか始まったかというと明確ではない。山東京伝が1787年に、《ざる蕎麦》の元祖といわれている深川洲崎の「伊勢屋」の《ざる蕎麦》について述べていることから、遅くとも1780年前後には存在していたと思われる。
 ところで、汁を入れる蕎麦猪口であるが、江戸時代の遺品として現代人のわれわれが目にすることのできる蕎麦猪口の90%が伊万里焼だという。いかに先の伊万里屋五郎兵衛らの磁器問屋が活躍したか、あるいは江戸の人たちが伊万里焼をいかに受け入れたかがお分かりだろう。
 また伊万里焼の江戸登場は1668年であることを先に述べたが、蕎麦猪口はいつだろう。
 今まで発見された蕎麦猪口の中で最古とされるのは、1655~70年ごろの《染付松樹文》(東京大学埋蔵文化財調査室:所蔵)であるという。とすると、伊万里焼の江戸登場と同じ時期に蕎麦猪口も江戸入りしているということになる。
 しかしである。
 蕎麦猪口は付けて食べるための食器であるから、当然《ざる蕎麦》の登場あたりから必要になったと考えるべきであろう。
  ところが蕎麦猪口登場1668年と《ざる蕎麦》登場の1780年の間には、約100年の差がある。このことから、❶最古の蕎麦猪口とされている物はまだ「向付」の段階の器であり、蕎麦のために使われた器ではないのではないか? ❷あるいは《ざる蕎麦》の登場はもっと早かったのかもしれない、ということも考えられる。ただ、現在唱えられている《ざる蕎麦》開始説は、一つの史料だけから、❷の、もっと早かった可能性があるだろうが、現段階では他の史料はないも同然だから分らない。

 そこで、別の視点からの検討を加えるつもりで、【江戸蕎麦】の特徴を、江戸蕎麦以前のいわゆる【寺方蕎麦】と対比して見てみよう。
【寺方蕎麦】()
 蕎麦打ちは、〝陶器製の鉢〟に蕎麦粉と〝〟を入れて捏ねていた。でき上った生蕎麦(十割蕎麦)は大笊に盛られ、それを〝木椀〟に小分けして、少量の〝垂れ味噌〟で〝和えて〟食べていた。生蕎麦の長さは〝短かった〟。また汁は旨味が足りなかった。そこでかわりに薬味が多種あった。
*寺方蕎麦:円爾が南宋から伝えた伝来蕎麦(【寺方蕎麦】)がどのようなものであったかは不明である。
 そこで、清の時代から続いているという中国承徳市の「百家春酒楼」の蕎麦「刀撥麺」の作り方と、江戸ソバリエの中村良一氏の近江国・大平護国寺の方法に類似点があることを参考にして、推定してみた。
 すなわち両者の蕎麦作りは〝陶器鉢〟を利用し、〝熱湯〟で捏ねていた。
 逆に言えば、木鉢水捏ね水洗い法などが【江戸蕎麦】の特徴であると推察できる。(2011年の「百家春酒楼」見学では陶器鉢で練っていたが、2018年再度見せてもらったときは臨時のボールだった。また湯は90℃だった。)【江戸蕎麦
①《ざる蕎麦》=蕎麦切と蕎麦つゆは別々で、それを〝付けて〟食べる。薬味の種類は山葵、葱、大根に絞られてきた。
②《二八蕎麦》=つなぎが工夫されたことにより、湯捏ねではなく〝で捏ねるようになった。麺の長さは八寸と長くなり、細さも1.3㎜と細くなった。またつなぎによって麺の状態がしっかりなったため、食感をすっきりさせるために水洗いを始めた。また長い蕎麦麺は縁起がいいとして、《年越蕎麦》や《引越蕎麦》として好まれるようになった。
③《出汁(鰹節)+返し(濃口醤油+味醂・砂糖)=江戸の蕎麦つゆ》が開発された。旨味のある出汁が使われ始めたので、薬味の種類が山葵、葱、大根に絞られてきた。
垂れ味噌汁より、〝酷〟があってかつスッキリした江戸のつゆには、《白磁の蕎麦猪口》がよく合った。
⑤《更科蕎麦》=さらしな粉で打った上品な蕎麦切が生まれた。更科蕎麦は、蕎麦つゆといい、薬味といい、白磁の蕎麦猪口といい、江戸蕎麦の集大成のような蕎麦となった。
更科蕎麦:江戸蕎麦を代表とする更科蕎麦は湯捏ねであるが、こればかりは水捏ねが難しかったため、出身地の信州流で打った。これが「更科蕎麦の創始者は信州出身だ」と明確に伝えている理由だと推察している。

 以上のように【寺方蕎麦】から【江戸蕎麦】への変化があったが、現実では、今日から突然変化するものではない。お互が影響し合って段々と変化し、江戸蕎麦が完成していった。その時期は江戸中期ごろとみられる。
 ただ私は、その変化のきっかけは、製粉技術の向上と、つなぎ、水捏ね法の発見による《二八蕎麦》開発だったと考える。この新技術こそ、日本の蕎麦史からみて革命的な出来事だった。
 そこで《二八蕎麦》の登場時期について検討してみたい。
 これについては拙著『新・みんなの蕎麦文化入門』で次のように紹介しているが、
 *本山萩舟説1624~1704年
 *植原路郎説1684年ごろ
 *新島繁説1728年ごろ
 本山説の年数には幅がありすぎて説としては成り立ちがたい。また蕎麦猪口との関係から新島説は難しい。
 とすれば植原説の1684年ごろが妥当であろう。現存最古の蕎麦猪口登場の1668年と近似しているから、納得できる。
 この《二八蕎麦》の登場によって、麺が長くなり、香りを大切にする盛り方《ざる蕎麦》が考案されたりと【寺方蕎麦】から【江戸蕎麦】へと変化したきっかけになったことは間違いないだろう。
 そうして、蕎麦が変わったなら、当然食べ方も変わったはずである。つまり《二八蕎麦》誕生時に、誰かが汁入れ用として「向付」を利用しはじめ、啜って食べるようになり、このころから呼び名が変わって「猪口」とよぶようになった。
 かくて、笊に盛られた二八蕎麦を 白磁の猪口の旨いつゆに付け、ツツツッと啜る 粋な江戸蕎麦が完成した。加えて白磁は唇の当たりがよい。とくに蕎麦湯を飲むときには心地よく、ほっとする。

 そこで、蕎麦つゆの器になった「蕎麦猪口」の話へ進もう。
 昔から「器は食べ物の衣装である」といわれている。なら、江戸蕎麦の衣装である蕎麦猪口、あるいははどのような物がよいだろうか。逆説的にいえば、素麺や饂飩は笊に合わない。野性味のある蕎麦と野趣性のある笊はお似合いだ。また麺とつゆを分けたのは、別にした方が蕎麦の香りを失わないからだ。香りのない素麺、饂飩は分ける必要がない。ちなみに竹笊を食器にしている民族は日本人以外いないだろう。
 先ず、蕎麦猪口論の第一は〝〟である。 
 その前に、蕎麦猪口には、木器と陶器と磁器がある。木器は軽すぎるし、陶器は重く感じる。蕎麦猪口は軽からず、重からず。磁器が粋でちょうどよい。
 蕎麦猪口碗の形としては、縁反り型、碗型、半筒型、長筒型などがある。
 【江戸蕎麦】以来、蕎麦切は盛ってある麺を数本摘まんで、蕎麦猪口内のつゆにちょいと付けて食べるから、口径はそれなりに広い方がよく、長筒型のように深い物より深くない物、そして底径はやや狭い方が摘みやすい。
 わが家の食器棚に並んでいる蕎麦猪口を計測してみると、口径は8㎝前後、高さは6~7㎝ぐらい、底径は5~6㎝ぐらいである。ついでにガラスコップを見てみると、口径は小さく、高さは高い。コップは水類を飲むわけだから、これでいい。それから味噌汁椀は具が入るから口径は広く、高さはやや浅めが食べやすい。ときに料理屋に行くと、上品に口が狭く高さのある物に装ってあることがあるが、口が狭いと箸が動かず貧相な態度に陥ってしまうから、好みではない。それから蕎麦猪口の口縁はやや反っている、いわゆる縁反り型が持ちやすい。またお茶飲み碗は掌におさまるようにやや丸みのある、いわゆる小碗型も案外いい。全麺協創立30周年記念にいただいた蕎麦猪口は向付を思わせる丸みのある物で持ちやすかった。
 蕎麦猪口論の第二は〝〟である。
 絵は色的には「染付」と「染錦」があるが、後者は色が綺麗すぎて蕎麦切には合わない。やはり単色の藍染がいい。そして描かれている絵がまた山水、景色、花草木、吉祥、動物・魚介類の絵や幾何・文字など実に多様である。何冊かの蕎麦猪口の本を手に取るといずれも絵の種類を分類することに熱心である。これは他の陶磁器にない蕎麦猪口ならではの特色である。なぜだろう。それは先ず白磁だから絵が生きてくるからである。ただ一般的な茶碗や皿にも絵はあるが、とくに蕎麦猪口は茶の湯における茶碗並みの執着振りである。ということは茶の湯蕎麦切においては、碗(茶碗、蕎麦猪口)が主役的な位置づけにあるのかもしれない。ただ中世(室町時代)に盛んになった茶の湯は陶器しかなかったが、近世(江戸時代)に盛んになった蕎麦切は磁器が主役になったのは、陶磁器文明の違いからある。そして陶器からは〝侘び〟、磁器からは〝〟という精神文化が生まれた。
 さらにいえば、侘びにはお軸が、粋には浮世絵がよく似合う。
 『「いき」の構造』の著者九鬼周造は、粋な絵画とは、「線画であること、色彩が濃厚でないこと、構図の煩雑でないことが条件であると述べている。そういう目で浮世絵を見ると、とくに広重の『名所江戸百景 - 大はしあたけの夕立』(漢字で書けば「大橋安宅の夕立」である)には、蕎麦切の雰囲気があると思う。   
 急に降ってきた夕立、聞こえる雨音、走りだそうとする橋の上の人たち。観る者の目がこの絵に釘付けになるのは、まるで細切(蕎麦切)のような細い線で描かれた夕立である。そこに日本の心(江戸の粋)を感じたのだろうか、天才画家ゴッホはまさか細い線状だけで雨を描くとはと驚きながらも模写してみたが、線で雨を描くのは西洋人の彼にとって難しかったようである。このことを逆にいえば、線が日本的だということである。ここに九鬼の言う、行き、息、生きる(*)が形になった〝粋〟が感じられる。
 (九鬼周造は、いきは、「行き、息、生きる」の「いき」と言っている。私は九鬼の言う「行き、息、生きる」が形になったものを〝〟とした。)
 ただ蕎麦猪口の多くの絵を観ていると、一つだけ景色のようで、景色でもなさそうな、よく分らない染付猪口がある。その絵は最初は朝鮮人たちが遠く離れた故郷を偲びながら描いた絵だったらしい。それが何代も何代も模倣して描いているうちに抽象的な山河になったものらしい。そこには先に述べた仮面を被って異国の地で生きてきた百婆仙と、その悲しみを越えて日本人として生きていこうとする息子たちの生き様が写されているような気がする。
 そのうえで、銀座の蕎麦店「成富」のご主人は、「伊万里焼の蕎麦猪口で蕎麦を食べると美味しい」と言い切る。もっとも店主は佐賀出身であるから当然の言葉かもしれない。でも専門家の森由美先生(江戸ソバリエ講師)も伊万里有田焼を絶賛される。同じく江戸ソバリエ講師をお願いしたことのある骨董店「柿の木」の店主柿谷進さまは「蕎麦猪口100個集めてみたら、1000個集めたくなった。そして1000個集めたら専門家になった」と言われた。
 この言葉、われわれ江戸ソバリエの理念としたい。
 蕎麦栽培100回(蕎麦の花)。蕎麦打ち100回(手打ち)。蕎麦本100冊(蘊蓄)。食べ歩き100店(食べ歩き)。もっとあるだろう、〇〇100回、1000回(粋な仲間と楽しくやろう)と・・・。
 蕎麦の道は続けることと見つけたり、なのかもしれない。
 これにて、光明白磁の染付蕎麦猪口の話は落着、です。  
                          《完》

追記
 「物は文字に代わる履歴書」という言葉がある。わが家の食器棚に収納されている蕎麦猪口を眺めていると、これまでお世話になった人たちの顔が浮かんでくる。

・近所の陶芸教室で作った自作の陶器蕎麦猪口と、教室の先生が作った陶器染付蕎麦猪口。
・塗師の笠川さんに習って塗った木製漆塗り蕎麦猪口。
・故・氏原暉男先生から、東京でも「高嶺ルビー」の種を播いてくれと依頼され、ソバリエさんたちに協力してもらって播いたころ、深大寺窯で高嶺ルビーの絵を描いて焼いてもらった陶器蕎麦猪口。
・深大寺そば学院卒業記念深大寺窯製陶器蕎麦猪口。
・佐賀空港で見つけた薬味皿入れとセットになった有田焼の蕎麦猪口。
・韓国の友人からいただい白磁染付茶碗。・友人のOYさんの知人の骨董店で見つけた、口縁の反りかえった染付朝顔型伊万里焼蕎麦猪口。
 おそらく〇世朝鮮人絵付師が、故郷朝鮮の山河を描いた染付を模して描いたと思われる。
・使用感を確かめるために購入した木製漆塗、染錦、短筒型蕎麦猪口。
・更科堀井創立230周年記念にいただい白磁の伊万里焼染付蕎麦猪口。
・「上野藪」鵜飼良平旭日中綬章受賞記念有田焼蕎麦猪口。
・片倉康雄の弟子である車屋の店主からいただいた、片倉康雄が作った署名入り蕎麦猪口。
・三遊亭金也師匠の奥様(陶芸家)作の、底部が石臼溝形の陶器蕎麦猪口。
・Sさんから、江戸ソバリエ・サンフランシスコ渡航記念にいただいた九谷焼染錦蕎麦猪口。
・森由美先生に江戸ソバリエ講師を依頼するために戸栗美術館をお訪ねしたとき買った伊万里焼染錦蕎麦猪口。
・ソバリエのKAさん自作の蕎麦猪口。
・同じくKAさんから戸隠蕎麦祭りのお土産としていただいた戸隠蕎麦祭りの蕎麦猪口。
・KMさんの九州土産の小石原焼蕎麦猪口。
・YSからご自分の会の創立10周年記念品としていただいた蕎麦猪口。
・IYさんからバレンタインにいただいたチョコ入り蕎麦猪口。
・四国の友人からいただいた砥部焼の蕎麦猪口・・・。
                                 感謝

《参考》
『美の壺』(NHK)
ほしひかる『新・みんなの蕎麦文化入門』(フグネ承風社)
九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)
浅野秀剛監修『名所江戸百景』(小学館)
中村良一「伊吹そば『大平寺流れそば打ち再現』までに」
https://www.edosobalier-kyokai.jp/pdf/202201nakamura_ibukisoba.pdf

           江戸ソバリエ協会 理事長
           和食文化継承リーダー
             ほし☆ひかる