第117話 村 夜
~ 中国麺紀行 余情編 ~
蕎麦の詩といえば、唐の詩人白居易の「村夜」が有名である。
この九月に中国を訪れたので、あらためて「村夜」をよんでみた。
「村夜」(Cun Ye) 白居易(Bai Ju Yi)
霜草蒼蒼蟲切切 (Shuang Cao Cang Cang Chong Qie Qie)
村南村北行人絶 (Cun Nan Cun Bei Xing Ren Jue)
獨出門前望野田 (Du Chu Men Qian Wang Ye Tian)
月明蕎麥花如雪 (Yue Ming Qiao Mai Hua Ru Xue)
【村夜 ☆ ほしひかる絵】
この詩は白居易(40歳)が母(57歳)を亡くし、喪に服するために母が住んでいた渭村の下邽(現:陝西省渭南市北)に退去したときに作ったのだという。それは811年、唐の第11代皇帝憲宗李純の治世であった。
とある夜、居易が家の外に出てみると、霜に打たれて生気を失った枯草の茂みで虫がしきりに鳴いていた。 村の南北の、道行く人の姿はすっかり途絶えている。 独り門前に出て、畠を眺めると、月明かりの下で、蕎麦の白い花が一面雪のように咲いている。
居易は年若くして国家試験に及第し、陝西省の事務官を振り出しに、皇帝の秘書である翰林学士、同じく皇帝の諌官である左拾遺、そして昨年は京兆府(長安)の戸曹参軍に任じられ、出世街道を歩んでいた。
そんなところへ、つい先ごろ愛娘の金鑾子を病で亡くし、今また母が逝ってしまった。
居易は佇んだまま、月光に映えて雪のようになった白い花をいつまでも眺めていた。そして、また愛娘のことを想い浮かべては胸がつまり、目に涙を滲ませるのであった。
鑾子はわずか3歳であった。あどけない言葉がやっと言え始めたばかりの年だった。私は、愛くるしい顔をした幼な子の頭を撫でやった。やっと肉親の愛情というものがどういうものか分かった。と思い始めた矢先、娘は私をこの世に置き去りにして遠い所に逝ってしまった。
居易は、娘を失ったときに、作った詩を再び口ずさんだ。
「念 金鑾子」 白居易
衰病四十身 嬌癡三歳女
非男猶勝無 慰情時一撫
一朝捨我去 魂影無處所
況念夭化時 嘔唖初學語
始知骨肉愛 乃是憂悲聚
唯思未有前 以理遣傷苦
忘懷日已久 三度移寒暑
今日一傷心 因逢舊乳母
虫は霜枯れした草の中で、まだ鳴き続けていた。 居易は虫たちに声をかけてやった。「そんな所に隠れていなくたっていいんだよ。遠慮しないで、出て来て月光を浴びてみたらどうだい。 そして堂々とその美しい歌声をみんなに聞かせてあげるんだよ。」 応えるようにして虫たちが一斉に大合唱を始めた。 「そうだ。その調子だ。お前の、その咲顔だけで、親は癒されるのだ。鑾子よ。」
白居易は日ごろから、こう主張していた。知識人は天下国家に責任があるという意識をもたなければならない。また詩文とは政治の欠陥を補い正し、人民の苦しみを救うのが使命だ、と。
しかし、そのためには都で仕事をする他に、いや人間というものは、こうして山野に立ち、月の光の下で、虫の音を聞き、母の死、子供の死を悲しむ時が必要なのだ。母と娘は、それを私に教えようとしているのかもしれない。 そう思った白居易は、下邽で3年間母の喪に服したのであった。
参考:『白居易』(岩波書店「中国詩人選集」)、陳舜臣『中国詩人伝』(講談社文庫)、ほしひかるの「蕎麦談義」第104.109.110.111.112.113.114.115.116話
〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕