第131話 2月3日 江戸蕎麦切の日

     

季蕎麦めぐり()

 

 23(新暦)を「江戸蕎麦切の日」といってもいいかもしれない。理由は、蕎麦通の方ならご存知であろう。

 『慈性日記』という江戸初期の史料に記されていることが、江戸における「蕎麦切」の初出だからである。

 日記には、こう書かれていた

 「慶長十九年二月三日 常明寺へ、薬樹・東光にもマチノ風呂へ入らんとの事にて行候へ共、人多くて候てもとり候、ソハキリ振舞被申候也」

 つまり、1614年の陰暦23薬樹・東光とともに街の風呂へ行ったが混雑していたので戻って、常明寺蕎麦切を食べた、と慈性は日記に書き残しているのである。

 

 では、この慈性とは何者か? また常明寺は何処にあったのか?

 先ず、慈性である。この人はほぼ明かにされているから略歴を紹介しよう。

 慈性は1593年に生まれた。父、日野資勝、母、烏丸光宣の娘。祖父は日野輝資、叔父は相国寺鹿苑院の院主、叔母は後陽成天皇の典侍、妹は対馬藩主宗義成に嫁している。先祖にはあの日野富子の兄、日野勝光がおり、慈性はその5代目に当たる。いわば中流の貴族である。 

 慈性は、1600年に天台宗門跡青蓮院の院家尊勝院へ入室。徳川2代将軍秀忠(在位:1605~1623)の世になった翌年、13歳(1606年)で出家。このころ第22代住持になったと思われる。14歳のとき近江多賀大社の別当不動院、さらに1647年に対馬厳原の萬松院を兼帯する。

 よく蕎麦関係の本では、慈性のことを「多賀大社の社僧」としているが、間違ってはいないが、正確でないことが、慈性の略歴をみれば分かるだろう。これは最初に調べた人が、そのような理解をしてしまったようだが、人間は十全を完璧にできるものではないから、多少のことは止むを得ないだろう。しかし、跡に続く人たちまでもが確認することを怠ってそのまま孫引きするようなことをしたため、そのような風説になってしまった。

 正しくは、「尊勝院の第22代住持で、多賀大社別当不動院を兼帯」である。

 代々日野家は尊勝院に入ることになっていたらしいが、残念ながら尊勝院には寺領がなかった。そこで祖父輝資は「孫が食えるように」と家康に懇願し、14歳の少年に不動院の役職兼務を願ったとされている。

 その後、慈性は20歳で法眼に叙され、→少僧都→大僧都→法印→権僧正→僧正→大僧正と、トントン拍子に出世していく。日記を見ると、そのノウハウが分かる。

 彼の日記は江戸へ行った1614年の1月から記録されているが、とにかく慈性は人と会っている。宗教会のボス天海を筆頭に挨拶まわりばかりの毎日である。江戸へ出たのもそのためだ。これが彼の出世の秘訣だったのだろう。

 とはいっても、つつがなく食える程度のサラリーマン重役を目指したくらいで、国政を動かすほどではない。ここでも彼は中流だった。

 そんな中流の彼ではあるが、冒頭の日記の文言によって、慈性は蕎麦界にとっては重要人物となるのである。

  そこで話を日記文に戻そう。「薬樹」というのは近江・坂本の薬樹院久運のこと、「東光」とは江戸・小伝馬町の東光院詮長のことである。年齢はわからないが、京・尊勝院慈性(21)ともに天台宗の僧侶であり、三人はしばしば行動をともにしているから、同じぐらいの歳の友人であったのかもしれない。

 次の「マチノ風呂」であるが、当時は「蒸し風呂」と「湯」があった。日記の同年の1月27日には「法性寺にて入申付入候」とあり、「湯」と「風呂」を使い分けている。したがって、2月3日の場合は「蒸し風呂」だろう。さらに当時は江戸に風呂屋ができたばかりのころだった。とすれば、三人の若者は「風呂ができたそうだ。行ってみるか」とばかりに街に繰り出した、という絵が浮かんでくる。蕎麦とは関係のうすい話ではあるが、当時の若者たちの一齣が垣間見られるというわけである。

 さて、問題の常明寺であるが、結論を先に言えば、常明寺の在った場所は未だ解明されていない。というのは、寺院も現代の会社などと同じように、改名したり、吸吸合併されたり、倒産したりする。もっとも多いのは火事であるが、その場合は記録さへも焼失してしまうため、存在を確かめられないことが多々あるのである。

  しかしながら、多少とも蕎麦に関わっている者として、このままでは悔しいではないか。そこでサスペンスドラマではないが、直接証拠がないときは、状況だけでも整理してみたいと思う。

 一、先ず、京・尊勝院慈性も、近江・坂本の薬樹院久運も、江戸・小伝馬町の東光院詮長も天台宗の僧侶であった。

 二、尊勝院は天台宗門跡青蓮院の院家、薬樹院は比叡山の麓坂本、東光院は江戸天台宗の代表格という格式のある寺院であった。

 三、2代将軍秀忠の時代の江戸とは江戸城の周辺がその範囲であった。

 というわけで、常明寺は、江戸城の周辺の、格式のある、天台宗の寺院であった、との仮の条件を提示したい!

 その条件で浮かび上がってくる寺社がある。日枝神社! である。

 日枝神社という名前は云わずと知れた天台宗総本山である比叡山延暦寺の「ヒエ」である。江戸における天台宗の総元締めは天海が建てた東叡山寛永寺であることは広く知られているが、それは寛永2年(1625年)創建以降のことである。それまでは日枝神社とか、東光院が重責を担っていたと思われる。その日枝神社は江戸時代では山王社・山王宮と称しており、もともとは河越の河越一族が大旦那であった。その河越氏の一部(河越重長)が河越から江戸に移って来て、江戸氏(江戸重長)となり、その後裔が南北町時代になって河越山王社を江戸舘に勧請した。そして太田道灌が江戸城を構築したとき北の曲輪近くの梅林坂に遷宮、さらに徳川家康が紅葉山に移遷し、秀忠が半蔵門外に移した。現在の国立劇場付近である。当時の山王社には多くの天台宗の塔頭があっただろうし、その中のひとつに常明寺があったのではないか、と私は想像するわけである。

 むろん日枝神社にそのような証拠品が残っているのなら、「幻の常明寺」なんていうことにはならないのだが、残念ながら何も手かがりはない。だから、現段階では私一人の妄想でしかなく、蕎麦好きのロマンとして、幻をいだいてる次第である。

 日枝神社の絵馬

 

参考:林観照 校訂『慈性日記』(続群書類従完成会)、林観照先生のお話、尊勝院(京都)住職のお話、薬樹院(滋賀) 住職のお話、東光院(東京) 住職のお話、日吉大社(大津市)、日枝神社(川越市)、日枝神社(赤坂)、

 〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる