第743話 公弁法親王と友蕎子

     

 ☆東叡山寛永寺五世公弁法親王
   先ずは、江戸初・中期ごろの高貴な方のお話です。
   はっきり言いますと、深大寺蕎麦が有名になったのは、この方のお蔭であると言っても過言ではないでしょう。
   日新舎友蕎子著の『蕎麦全書』(1751年刊)を読みますと、こんなことが書いてあります。
   
 ~
18年前に将軍家からお問い合わせがあったので、そのときの住職は、今から50年ほど前に上野大明院様へ深大寺境内で栽培した蕎麦を献じたところ、大明院様はそのお蕎麦を召し上がられ、風味が他の蕎麦とちがってたいへん美味しかったと周りの方々に吹聴されたので、深大寺蕎麦が高名になりましたと申し上げました。

 「上野大明院」というのは、東叡山寛永寺五世公弁法親王(在位:1690~1715)のことです。
  文面からしますと、献上された深大寺産の蕎麦粉を寛永寺内の僧が打って差し上げ、それを公弁法親王が召し上がられたのでしょう。
  また、「18年前」というのは、『全書』が上梓されたのが1751年ですから、取材はそれより前のことでしょうから、ここでは1730年ごろと考えましょう。
  「将軍家」というのは八代将軍吉宗(在位:1716~45)、深大寺は六十八世権大僧都寂湛豪覚(1754年寂)でしたので、吉宗から寂湛豪覚に問合わせがあったということになります。そのころに何らかの理由で江戸城内で深大寺蕎麦について話題になったのでしょうか。
 では、寛永寺五世公弁法親王という方はどういう人だったのでしょう。履歴を見てみればだいたい分かりますが、その前に寛永寺の法統は海大僧正によって遷化された後、二世に弟子の公海大僧正が就き、三世からは皇子を迎えて「法親王」と仰ぐことになりました。
  五世の公弁法親王は1669年、後西天皇(1638~85)第六皇子として生まれました。母は天台宗光源寺(大阪市平野区)の僧智秀の娘六条局(?~1680)という方です。第六皇子は1674年に護法山出雲寺毘沙門堂門跡(京都市山科区)の門主(1608~95)の室に入り受戒しました。祖父智秀のご縁によるものでしょうか。
  1690年、兄(後西天皇の第五皇子;1664-1690)である寛永寺四世(1680~1690)天真法親王が亡くなられたので、跡を継いで寛永寺五世(輪王寺門跡)に就任され、関東へ下向されました。
   その後、公弁法親王は1698年に露座であった上野大仏に仏殿を建立。1703年には焼失していた東叡山勧学寮(天台学徒の修行の道場;『江戸名所図会』に絵あり:現在の西郷隆盛像辺り)を幕府直轄の観学講院として再興しました。
  また1714年には願王院智周(1659~1743)に命じて『台宗二百題』を刊行しました。そして25年を経た1715年に諸職を辞任し、毘沙門堂に隠棲。1716年、毘沙門堂にて薨去されました。公弁法親王の経歴としてはこういうところでしょう。しかし公的業績というのは寛永寺としての仕事ですから法親王ご自身とは関係なく進められるところがあります。

  その点、個人的な話題の方が公弁法親王ご自身を知るためには参考になります。ですので、よく知られている逸話を幾つかご紹介します。
  *1698年、川越藩主柳沢吉保(1659~1714)が惣奉行となって寛永寺根本中堂を落成させ、公弁法親王を屋敷にご招待しました。その折に吉保は法親王から土産として《有平糖》を賜ったといわれています。《有平糖》というのは美麗に細工した西欧渡来の砂糖菓子です。今でいえば、珍しい高価なケーキやチョコレートみたいな物ですから、上層階級の人たちだけが楽しんだお菓子というわけです。そういえば、江戸蕎麦の初見記事として有名な『慈性日記』の尊勝院慈性(1593~1633)の父日野資勝(1577~1639)もこれを大変好んでいたといいます。
  *1702年、公弁法親王は赤穂浪士討入事件を義挙としてとらえ、五代将軍綱吉に浪士に切腹を命ずるよう促したといわれています。
  *元禄年間(1688~1704)、公弁法親王が御漆園の造営、漆の植樹をすすめたため、以後日光彫りや日光春慶塗が発展したそうです。
  *1711年、公弁法親王が日光山の名勝八景【小倉山(754m)、鉢石宿、憾満が淵、寂光の滝、大谷川、鳴虫山(1104m)、神橋、男体山(2486m)】を撰んで、つれづれに陪従の僧徒・坊官らと詩作をこころみました。
  *根岸の里の御行の松(台東区根岸3-12-38西蔵院)近くの音無川の畔の茶屋(現:竹隆庵岡埜)がこごめ餅に餡を包んで公弁法親王に献上したところ《こごめ大福》と名付けてくれたと伝えられています。

 このように、公弁法親王という方は逸話の多い人物だったようですが、わけても赤穂浪士討入事件を義挙として考えたことなどは公弁法親王を理解するためには興味深いエピソードだと思います。

☆友蕎子の深大寺蕎麦
  その点、《有平糖》《こごめ大福《深大寺蕎麦》などはまったく個人的趣味という他ありませんが、それなのに今も言い伝えられているところが、面白いところです。
  そこであらためて見てみますと、竹隆庵岡埜の《こごめ大福》は、こう紹介されてあります。
  ~ 江戸庶民の間で喜ばれたお菓子に「こごめ餠」があり、ある時、根岸の里の茶屋がこの餠に餡を包み入れ、 上野輪王寺宮公弁法親王に献上したところ、お誉めの言葉を頂き、これをこごめ大福と名づけられました。
 いわば、《こごめ大福》の由来を公弁法親王に委ねたわけですね。
 同様に、このことを持ち出した日新舎友蕎子は《深大寺蕎麦》の由来を公弁法親王様に求めたのです。彼は『蕎麦全書』にこう書きました。
 ~ 近世世上に深大寺蕎麦流布し高名なるにや、十八年以前管家よりそばの事を有御尋けり。其時の住僧云、五十年斗り以前上野大明院様御時、境内より作り出せるそばを献ぜし事あり。其蕎麦を被召上しに、其風味甚他に異なりとて、御風聴甚しかりしとなり、其時より名高くなりしと也。~
 一言でいえば、深大寺蕎麦「舛屋」の主人日新舎友蕎子は、江戸蕎麦の由緒正しきことを公弁法親王の名のもとで証明したかったのでしょう。
 
  ところで、「友蕎子」という筆名の「子」の意味ですが、初めは子供の意からできた字です。それが若者や男子の敬称に広がり、やがては自説を述べる人、学説を立てた人の尊称になりました。たとえば老子、孔子、孟子などがそうですから、紀元前にはそういう敬称が確立していたわけです。
  日本の江戸中期ごろには自説を述べる人もふくんで愛好家的な敬称にもなっていました。ですから、蕎麦粉屋としての友蕎子の筆名は最高なんです。
  ついでながら、重箱の隅をつつくようですが、「舛屋」の「舛」は誤用ですね。正確には「升」「枡」であるべきで、本来「舛」はマスと読まないのに、いつの間にか誤用が通っているわけです。
  この誤用というのは、他の国はどうかは知りませんが、日本はたまにあるように思います。万葉仮名のところでも述べましたが、それはおそらく日本が文字を持たなかったため、日本人は字(日本字)を大事にしないところがあるのかもしれません。国字を産まなかったための悲劇的軽率さがあります。
  桃山学院大学名誉教授で、翻訳語研究者・比較文化論研究者の柳父章は、「日本語の名詞は漢字でできているものであり、その名詞が文章表現の意味の中心である」(『近代日本語の思想』)と言っています。
 もはや今は、日本字となった漢字と、それから生まれた崩し字の仮名は日本の字です。日本の字を大切にしたいものです。
 もしかして、友蕎子は誤用の字を見ながら、蕎麦の正論を述べようと思ったのかもしれません。そうしますと、「舛屋」の看板を掲げたのは彼の父親か、あるいは彼は養子だったのかも、なんていう妄想がわいてきます。養子であれば彼の文章が自制的なのも分かります。
  最後は煙に巻いたような話になりましたが、いずれにしましても日新舎友蕎子の『蕎麦全書』は、江戸蕎麦を大いに讃歌するために執筆されたのですが、またそのことによって深大寺蕎麦の未来に光を与えたことも確かです。

参考
写真:御行の松とこごめ大福
日新舎友蕎子『蕎麦全書』
『ものがたり深大寺蕎麦』シリーズ
 743話 公弁法親王と友蕎子
 733話 都市の成立
 713 日新舎友蕎子と深大寺蕎麦
 732話 大田南畝の深大寺
  731話 深沙大王の里
  727話 ねじれ花
  724話 鳩笛
  721話 謎の武蔵国司の乱?
  720話 深大寺白鳳仏はどこから?
  718話 白鳳仏 千年の目覚め
  717話 青春の白鳳仏
  716話 二重の異邦人
  715話 日本の中の朝鮮文化

〔深大寺そば学院 學監・江戸ソバリエ認定委員長 ほし☆ひかる〕