第62話 須原屋重政が描いた道光庵
蕎人伝 ①北尾重政
1990年91年に起きた湾岸戦争のことをノンフィクションとして某誌に連載している知人がいる。私は「そのような専門的軍事情報をいったいどこから得ているのですか?」と尋ねたことがある。
その人は答えた。「問題意識さえもっていれば、いま情報はどこにでも転がっているよ」と。
そんなことがあったある日のこと、浦和の街を歩いているときだった。ふっと見ると「須原屋本店」という本屋があった。私は驚いた。というのも、ちょうど江戸時代の書物問屋「須原屋」について調べてみたいと思っていたところだったからである。
江戸時代、一番の書物問屋は「須原屋」だといわれていたときがあった。大きいから当然暖簾分けもしていた。そのひとつに小伝馬町店があり、店主には北尾重政(1739~1820)という跡継がいた。しかし重政は絵が好きだったため須原屋小伝馬町店を弟に譲って絵師になり、後には北尾派の祖にまでなった。
絵師・北尾重政は、現在の蕎麦界から見て実に重要な史料を残してくれた。それが『絵本浅紫』(1769年発行)である。その中に重政は、あの噂の高かった道光庵のことをこんな風に書き残しているのである。
とりわけ江戸を盛美とす、中にも浅草道好庵の手打ち蕎麦は第一の名物なり、またこれをひさぐものを慳貪なるこヽろか、また無造作にして倹約にかなひたりとて倹飩と書くよし |
ただし、この本には「道光庵」ではなく、「道好庵」の文字を使用してある。
では、「なぜ道光庵は絵本になるほど噂が高かったのか?」
それを言う前に、こんな「なぞなぞ問題」がある。
「○○庵」というように蕎麦屋には、なぜ「庵」の号が付くのか?
その回答として、たいていの蕎麦通なら道光庵の伝承をご存知であろう。
伝承というのはこうだ。浅草に称往院というお寺があった。そこに道光庵という塔頭があり、庵主は代々蕎麦打ちの名人、いつも道光庵は庵主が打つ蕎麦を目当てにやって来る檀家の人たちでいっぱいだったという。
そんな道光庵人気にあやかって、蕎麦屋は、○○庵という屋号を付け始めたというわけだ。
浅草の古地図を見ると、確かに浅草に称往院があり、その寺内に塔頭の道光庵が記載してある。
絵に関心をもっている私は、道光庵のことを描いた北尾重政についてのミニ小説を書いてみようと思い立った。
そんなとき、出会ったのが浦和の「須原屋」というわけだ。江戸中期の徳川8代将軍吉宗のころの創業といわれる「須原屋」の今に続く看板を見たとき私は、「伝統が生きている、つながっている」と興奮しつつ、すぐ「須原屋本店」に取材を申し入れた。
その後は現代の称往院のご住職にもお会いして(現在、道光庵は存在しないので)、拙文ながらもミニ小説らしきものを書きあげたのである。
「いつも課題をいだき、行動すれば、道に光が見えてくる」と言ったら少し気負いすぎの感はあるが、正直「世の中、面白いものだ」と思ったものである。
参考:『絵本 浅紫』http://www.geocities.jp/ezoushijp/asamurasakiue.html
称往院ご住職の話、『須原屋の百年』(須原屋)、
〔随筆家、江戸ソバリエ認定委員 ☆ ほしひかる〕