第841話 命の《かけ蕎麦》
2023/06/13
病床からの美味観察
これは、風邪をこじらせて気管支喘息になったある男の病床からの美味観察記である。
喘息というのは、身体を横たえたとたんに発作が出てくることが多い。だから寝られない、眠れない。一晩中、布団の上で起きていなければならない。その喘息発作の間にうとうとすることがあったとしても、このような状態が一週間も続けば、本人の体力も気力も失せてしまうのである。
ちなみに、男の妻はある手術を控えていた時であった。そのため普段どうりの生活が困難な状況にあった。
それでも何か口に入れなければならない。それが日常生活の第一歩だ。男はすぐ近くのスーパーに行った。しかし歩くのは遅い。階段では息も切れた。何か飲み物が欲しかった。男は、店の棚にならんでいるジュース類に目を奪われた。
「りんごジュース」・・・、ずいぶん前に飲んだ時のスッキリした喉越しを思い出し、買ってみて飲んだ。一口目は美味しかった。しかし甘すぎて、続けられなかった。
「野菜ジュース」・・・、これで栄養分が摂れそうな気がして、買って飲んだ。一口目は美味しかった。しかし、濃すぎるし、塩分が強すぎて、続けられなかった。それに冷たいジュースは一見気持よさそうだったが、病身には少しきついところがあった。
翌日は、林檎を一個買って、擂って飲んだ。これは美味しかった。
ジュースより生の果物がよいのかと思って、美味しそうに見えた外国産オレンジを買った。一口目は美味しかった。しかし食べていると、段々薬臭い味がしてきて、食べたくなくなってきた。
そこで、翌日は、国産の蜜柑を買った。優しい酸味と蜜柑の味がして、こちらの方が断然美味しかった。
そこで男は思った。
冷たい「りんごジュース」「野菜ジュース」は、健康人の健康ジュースなんだ。病人の舌には、生の林檎の汁や、国産の果物が優しかった。
温かい飲み物なら、飲めるかと思って、男はミルを廻して珈琲を淹れた。しかし半世紀以上欠かしたことのない珈琲なのに、珈琲の苦さが壁となって飲めなかった。渋い「紅茶」もそうだった。ただ急須の「緑茶」の旨味は気分が落ち着いた。
飲み物ばかりでは、力が出ない、そう思って、男は「おにぎり」売場に行った。日本人で、おにぎりが嫌いという人間はあまりいない。だから食べられると思った。棚には豊富な具のおにぎりが並んでいた。ただその日は「揚げ物」が入ったようなものは食欲がわいてこないので、「昆布」「おかか」と和の物を選んだ。男は理由もなく二個買った。普段なら、たいていの人はおにぎり二個ぐらいは平気だろうと思ったからだろうか。しかしいざ食べてみると米粒の触感が負担に感じて、一口以上すすまなかった。このように米粒が負担と感じたのは初めてであった。男は驚いた。ただ塩分を押さえて作ったこのときの味噌汁はじわっと染みるように美味しかった。
しかしよくよく考えれば、おにぎりとは屋外用の食べ物である。つまり健康人の食であって、病人が食べるものではなかったようだ。
それならと、今度は「お粥」を買って温めて食べた。しかしお粥なのに、芯の粒々感が口に障り、美味しいとはいえなかった。そこで自宅の冷蔵庫にご飯の残りを冷凍していたものを取り出し、水を加えてほんの少し塩を加えて炊いた。軟らかくて美味しかった。茶碗に軽めの一杯だけ頂いた。翌日は梅干をお伴にしたり、おかかをかけたりして、お粥生活はほぼ一週間続いた。
ここで男は思い知った。
病人の口には、工場製品の病人食より手作り食が優しく美味しかったと。
気力がないから、その男の毎日はぼうっとテレビを観た過ごしていた。
相撲は気が紛れて面白かった。騒がしいクイズ番組や。大げさなお笑いの料理番組は観たくなかった。ただ正統な料理番組は観るともなく見ていた。
たまたま牛肉と鶏肉の料理番組が放映された。各々は局がちがう別々の番組だった。
その男も普段は肉を食べる。嫌いではない。ただ肉といっても何の肉かが問題であるが、そこには順番というものが介在する。たとえば好きな肉の順は、牛、鴨、羊、豚、鶏の順というこどもあるだろう。ただ中ほどの肉は料理によって変わるかもしれない。一番の牛肉と最後の鶏肉は決まっている。つまり鶏は食べないわけではないが、選ぶとしたら最後、というわけである。
ここで男は思った。今のこの状態なら牛や鴨を目の前に出されたら一口ぐらい手を付けようとするかもしれない。しかし鶏肉は絶対手を出さないだろうと。
食べ物の好みには、好き嫌い(〇×)という基準以外に、順番(1.2.3・・・)という基準がある。それが病のときは「順番」が、「好き嫌い」と同じような基準になるのかもしれない。
同じ肉料理の話を続ければ、その男は肉は温かいものが好きで、冷たい肉はあまり好みではなかった。多くの人もそうだろうが、温・冷の違いはこんな具合になることがある。温かいソーセージは好きだが、冷たいハムは好まない。だからハムの入ったポテトサラダは好みではない。でも好みではないが普段は食べているというのが現状だ。
なぜこんな話を持ち出すかというと、食べ物の好みに対する理解があった方が介護人と病人の関係もうまくいくと思うからだ。
介護する人が、順番という基準に気が付かないと、「普段はハムの入ったポテトサラダ食べていたじゃない。今日はどうして食べないの?」という疑問にぶつかってしまう。病人からいえば、その普段が無意識ながら無理していたにすぎない。それが病気になったときは正直になっただけというわけである。
さて、その男が発病してから3週間を経過していたころであった。
さすがに、お粥も、そして食欲のなさにも飽きあきしてきた。
そんなとき、男の友人が、蕎麦を打って送ってきてくれた。
男はそれを見て何が何でも食べたいと思った。理由はその友人が打った蕎麦はいつも美味しいからであった。
男は普通なら「ざる蕎麦」で頂きたいところだが、今日は「かけ蕎麦」にして食べた。
あヽ、つゆの旨味が染みる。あヽ、蕎麦が美味しいと感動した。ほんとうだった。涙が出るくらいに美味しかった。
そのせいか、この日を境にして男の食が少しずつ戻ってきた。量は多くはなかったが、食べる気が戻ってきた。
男は、友人の蕎麦は「命のかけ蕎麦」だと感謝の気持でいっぱいになった。
それから具合は二進一退していたが、男は少しでも日常生活に戻りたいと願うようになった。
ある日のこと、男はマンションの廊下で違う階の方とお会いした。その人は70才代、「いや~、参りましたよ。肺炎になって1カ月、やっと治りましたよ。今の病院は入院させてくれないんですよねー。」私もそうだが、その方もげっそり痩せておられた。
このとき、ふっと灰色の不安が男の胸を過ぎった。
昨日ニュースで子どもたちの間で、変なインフルエンザが流行っていると報じていた。世界規模で蔓延したCOVID-19のため、ウィルス界の秩序が狂ってきているのではないだろうか。もしそうだとしたら、人類の将来はどうなる、・・・と思っても、それはSFみたいな話である。われわれにはどうしようもない。
男は、その方と「お互に気つけましょう」と言って、別れた。
ところで、その男は、あることをメモっていた。あることとは何かというと、先に述べた病床での味覚に関して感じたことであった。男はそのメモを眺めているうちに、あることに気が付いた。
病人の舌には、適量の旨味、甘味、鹹味、酸味は、舌に優しいから、美味しく感じたこと。そして工場製食品には優しさがなかったこと。
一方、油脂味、辛味、苦味、渋味は避けたいと思ったこと。
前者の病人の舌は、いわば子どもの味覚と同じだが、それだけに人間にとって必要な味覚ではないだろうか。
そう考えると後者の味覚の性格もしぜんと見えてくる。人間にとって絶対必要な食べ物ではないが、慣れると美味しいから、やがては欠かせなくない食べ物になる、いわば大人の味というものであった。
ここで男は思った。半世紀もの間、愛飲していた珈琲が日常から消えるのは自分史が消えるようで、あまりにも寂しすぎる。これだけは取り戻したい。
珈琲を取り戻すことは、日常を取り戻すことになりはしないか。
もう一度珈琲の苦味を一から体験する。男はやってみた。いわばリハビリである。1日目は子どもが初めて珈琲を口にするように不味かった。しかし2, 3日目から慣れてきて、抵抗がなくなった。ただ現在のところまだ珈琲の美味しさまでは取り戻せていないが、近々蘇ってくるような気がした。
そう思ったとき男は、およそ一カ月の味覚体験のメモを頼りに一文にしようという気になってきた。
人の一生には、病、災害、事件、不幸などの遭遇があるだろう。それは本人にとっては地獄だが、人さまには他人事。だから一文にしたからといって、世間では「へ」でもないものだ。
それでも自分自身のリハビリになるかもしれないじゃないか、男は期待しながらパソコンを開いた。
〔エッセイスト ほし☆ひかる〕