第867話 漠然と、蕎麦は日本産と思い込んでいた。
2023/12/12
~ ある女子大における特別講座から ❷ ~
さて本論だが、お話する「江戸蕎麦学」は、次の三本の柱から成っている。
①蕎麦は、植物も麺も中国から入って来た。
これは京都大学名誉教授大西近江先生や信州大学名誉教授の氏原暉男先生の説に負うところが大きい。
②伝来当初は、近畿の寺社で食されていた。
これは麺類史研究家伊藤汎先生の研究に負うところが大きい。
③江戸時代になって江戸に蕎麦麺が伝わると独自に進化し、日本の食となった。
これは①②をふまえて、ほし自身が独自に展開している、つもりである。
栽培蕎麦の始原地は中国の雲南省・四川省・チベット自治区の境である。その辺りに住む遊牧民族系の人たちが5000年前に栽培を始め、それが栽培の手軽さ、生でも食べられることもあって、やはり遊牧民族たちの手によって大陸を北上し、朝鮮半島、対馬を経由して日本列島の北部九州へ上陸した。その時期は縄文晩期である。
頂いた感想文には、「漠然と蕎麦(植物・麺)は日本産と思い込んでいた。」という声が多くあった。
この〝漠然と〟という率直な表現は事実だと思う。
日本国内において、「蕎麦切(麺)発祥の地」論争が江戸時代から続いているのも、漠然と蕎麦(植物・麺)は日本産と思い込んでいたからである。
とくに、蕎麦切発祥説は日本各地で唱えられている。なかでも有名なのが信濃本山宿(塩尻市)説(『風俗文選』記載)と甲州天目山(甲州市栖雲寺)説(『塩尻』記載)である。ただし、その記載内容には「・・・と聞いている」ていどで根拠なく、とても「説」とまでは言い難いものである。なのになぜ支持されているかというと、はっきり書いてある本もあった。つまり前者の作者・俳人雲鈴も、後者の作者・国学者天野信景も「第一級の知識人」が述べていることだから内容は信用できるというのである。知識人といっても俳人、国学者であって食の専門家でも何でもないのに、いまの言葉で言えばずいぶんアバウトな話である。そのアバウトな説を郷土愛が支持したわけだが、それも江戸時代の状況からいって否定できない。なぜなら当時は知識人と非知識人の差は歴然としているから、「あの方がおっしゃるならそうだろう」ということになることは確かである。ただ、この考え方がつい最近まで続いていた、というところが釈然としないが、世間というのはそんなものかもしれない。
ここで少し話題を変えて、世界における「蕎麦発祥の地」説を見てみると、先ず1883年スイスの栽培植物学者カンドルが栽培蕎麦の起源地を中国東北部からシベリアにかけての地域であると初めて提唱した。1883年は明治になってまもないころである。江戸時代の人々が蕎麦が日本産であると思っても無理からぬことである。また明治時代に「中国東北部からシベリア地域」説が発表されたとしても、すぐには日本に届かない。蕎麦(植物・麺)は日本産と思うことは継続されていた。
そして、私たちが江戸ソバリエ認定事業を始めたのは2003年であるが、私が蕎麦の勉強を始めたのはその5年ぐらい前からである。そうしたときも、蕎麦切国内発祥論は主流であった。まさに〝漠然と〟そう思い続けていたのである。
その流れが変わったのが、大西近江先生の「中国西南部地域」説であった。大西先生が栽培蕎麦を発見したのは1990年のことと聞いているが、一般にこの説が知られるようになったのは大西先生が第10回国際蕎麦シンポジューム(開催地:中国・咸陽市)で発表された2007年以降である。それと同時に、このあたりから蕎麦切の国内発祥論議は鎮火した。今度は日本人の説だったからであり、さらには栽培蕎麦がそうなら、蕎麦麺も?と、疑問符が付き出した。それにしてもまだ15,16年しか経っていない。女子大生の皆さんの、〝漠然と〟感は当然といえば当然である。
それからもう一つ、中国青海省で発見された4000年前の粟黍麺が、世界最古の麺であることも彼女たちの記憶にとどまったようである。
5000年前の蕎麦栽培、4000年前の麺作り、いずれも遊牧民の手によるものであるが、遊牧民の文明関与は大きいと私は考える。
よって、次回は遊牧民族の農業姿、あるいは麺作りの写真を準備したいところである。
なお、大西近江先生は令和5年11月にご逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
《❸へ続く。》
《参考》
ほしひかる『新・みんなの蕎麦文化入門
江戸ソバリエ認定委員長
和食文化継承リーダー
ほし☆ひかる