<コンビニ創業戦記・附伝>「鈴木貞夫・言行録」第5回

      2016/07/22  

≪賀正≫

2015年が、平和で希望に満ちた年でありますように!

 『初春や 仰ぐ朝日の 目出度けれ』

 『諸人の 健やかなれと お屠蘇酌む』

     2015年 元旦

第二章・「百貨店時代」

ーー1956年(昭和31年)~1964年(昭和39年)--(22~30歳)

《丸物百貨店京都本店》

ーー1956年(昭和31年)~1957年(昭和32年)--(22~23歳)

丸物百貨店といっても、今や歴史の彼方に遠く霞んでしまい、特に30歳未満の若い世代の方には、全くなじみの薄い名称かもしれない。

だが、スーパーも、コンビニも、まだ影も形もなかった半世紀ほど前のころは、百貨店は小売り業の中で唯一の大企業でり、国民生活の戦後復興の担い手の主役を果たしていたのだ。

大人も子供も、百貨店へ行くことが、日々の憧れであり暮らしの楽しみである時代があった。

当時の百貨店は、江戸時代にルーツを持ち明治時代、大正時代に近代化を果たした三越や高島屋、松坂屋、伊勢丹などの歴史と伝統を誇る老舗デパートが、中心であった。

それに対して丸物百貨店は、大正時代の末期に中林仁一郎氏(1891~1960)が京都駅前に創業し、戦中、戦後の混乱期を乗り越えて、一代で築きあげた新興のデパートであった。

それでも、私が入社する頃には、京都・岐阜・豊橋・八幡などに支店を置き、系列店として、名古屋の丸栄、浜松の松菱など優力な地方百貨店に成長させ、全国百貨店化を目指して東京進出を図っていたのである。

中林仁一郎・創業社長の飽くなき商魂と燃ゆる事業家魂のなせる技であったろう。

(在りし日の中林仁一郎社長)

私にとってまだ未熟な20歳代後半に、東京丸物労働組合委員長として、晩年の中林仁一郎社長の謦咳に、直に接する機会を何度か持てた事は、まことに幸甚であったと感謝したい。

残念ながら、昭和35年に中林社長が急逝されたことが、丸物の運命を急速に衰退に向かわせる契機となったのは、その後の歴史の変転が証明している。

いずれにせよ、丸物百貨店が、私の商人としての心構えや振舞、実務的、実践的基礎を身につける修業の場となったことは間違いない。

丸物京都本店時代とそれに続く東京丸物時代のことは、既に≪サンチェーン創業物語≫(第2回第3回)でも、あらまし触れているので、ここでは重複しない程度に、手元に残っている懐かしき写真を中心に紹介したいと思う。

(入社当時の丸物百貨店京都本店全景と店サイン)

「31会」

丸物が東京進出要員として募集し採用した大卒社員は、31名であった。

入社年度が昭和31年度、総員31名ということで、同期会を作る時、誰言うともなく会の名称を「31会」と決めたのである。

約半数は関西出身であったが、全員が東京進出要員であったから、仲間意識も強く、結束力があったと思う。

何かというと寄り集まり、談笑したものだ。その中でも、板垣君、酒井君、佐々木君、守谷君、横尾君などとは、お互いに傘寿を過ぎた今でも、一年に一度は、丸物同窓会などで交歓が続いているのは同慶の至りである。

京都本店での勤務は、百貨店マンとしての基礎的研修期間であり、それぞれが配属先の売り場担当責任者として、実務訓練を集中的に受けることになった。下の写真は確か、初期研修を終えて懇親会を開いたときのものであるが、教育責任者の八木主任を囲んで、31名全員が若々しく写っていて懐かしい。

この時から54年目の平成22年(2010年)4月15日、横尾幹事が呼びかけ人となって、久しぶり集まったのが次の写真の12名である。板垣研、酒井薫、佐藤猛夫、佐野忠男、沢野芳男、高橋明良、高橋幸男、武田礼二、堀川迪洋、守谷峰和、横尾義昭の諸君、と私・鈴木貞夫である。

お互いに人生の風雪を刻んだ味わい深い風貌に変身していたのは当然の理であろう。

(入社時・31会懇親会)

(平成22年4月・31会)

「紳士肌着売り場」

私が新規配属されたのは、京都本店の1階・紳士肌着売り場(第11課)であった。

上司は、前橋係長、小西主任であり、ここで春夏秋冬・四シーズンにわたる紳士用肌着の「仕入れ・販売及び売り場管理の基本」を教えられた。売場の先輩の皆さんには、何かと親切に指導していただいた。そのすべてが、半世紀以上経ったいまでも、私の中で生き続けている。

一年は、長いようで短く、無我夢中の内に過ぎていった。

(京都店紳士肌着売り場の皆さんと)

「太陽の会」

「太陽の会」は、入社して三月ほど経ったころ、私が周りの社員に呼びかけて始めた読書会である。

週に一度、お寺などを借りて、壷井栄や林芙美子など女流文学者の本を中心に朗読し、和気あいあいと感想を語り合うものであった。

売り場の社員のみならず、伝え聞いた取引先の人やアルバイトの学生も加わり、1年ほど続いただろうか。一時は15名ぐらいにはなったかと思う。

そのころの懐かしい写真である。

(読書会・「太陽の会」の皆さんと)

いよいよ東京丸物の開店が迫り、上京する直前に、売り場の同僚であった東沢道子と、平安神宮にてささやかな結婚式をあげた。

その夜、盛大な見送りを受けて、夜行列車で東京へ出発した。

(昭和32年10月27日・平安神宮にて結婚式)

《東京丸物百貨店》

ーー1957年(昭和32年)~1964年(昭和39年)--(23~30歳)

私にとって 東京丸物時代は約7年ほどであったが、商人として、またビジネスマンとして、多くの実践経験を積み、今に至る人生の基礎を築いた時期であったといえよう。

東京丸物が百貨店法適用第一号となり、「売り場半減」という不運と「工事未完成」の悪条件下で、「開店準備」と「開店大売り出し」を見事に乗り越えたことや、「労働組合を結成し真摯な労使交渉に体を張った」ことなど、20歳代の若さで、得難い貴重な教訓を数多く体得することができたからである。

(東京丸物百貨店全景)

「紳士肌着売り場」

東京丸物では、「紳士肌着売り場」、「日用品(荒物金物)売り場」、「経営企画室」、「ハンドバッグ・鞄売り場」の順に担当が変わった。

それぞれの職場の直上司は、大橋時夫主任、森勝郎係長、大野初男室長、渡辺竹乃助部長であった。皆さんそれぞれに経験豊かで、個性的な持ち味があり、いろいろと教えられることが多かったと思う。

(東京丸物・紳士肌着売り場懇親会と社員旅行の皆さんと)

「金物・荒物売り場」

この売り場は、地下2階にあり、格別の思い出がある。

当時の売り場は、鍋釜から、束子、たらい、簾に至るまで、台所用品小物、日常生活用品万般を扱う売り場であり、陳列でも、商品管理でも、いかにも不均衡な雑然とした売り場であった。

私は何とか整然とした売り場にしたいと考えて、当時日本で誕生したばかりであったスーパー方式によるセルフセレクション売場への転換を図ったのである。

陳列什器の脚を切り、高さと配列を揃え、見通しの良い売り場に変更した。レジも作業しやすいように1か所に集中した。

新藤店長や森係長からも「売り場がよくなったな」と評価を受けたが、お客さまからも買いやすくなったと好評であったと思う。

その時の写真が残っていないのは、残念である。

(日用品売り場社員旅行の皆さんと)

「経営企画室」

次いで勤務した経営企画室は、開店当初の東京丸物にとって、百貨店法適用により半減された売り場を、いかに回復させるかは、経営の第一優先課題であった。売場の全面回復こそが、東京丸物の存続と成長を可能とするからである。

経営企画室は、この任務を担当する部署として設けられた。メンバーは、丸物きっての人格者と言われた大野初男室長、誠実・実直の権化・水野博係長、と不肖私の三人であった。

百貨店の新設及び既存店増設等の申請については、通産省が窓口となり、百貨店法に基付く百貨店審議会の審議承認を得るべきことが定められていた。通産省との接渉や申請書類の作成が、経営企画室の主要な業務であった。

当時の時代の空気は、地元個人商店組織の百貨店敵視の声に押されて、百貨店に対しては厳しいものであった。

申請書類は、申請理由と経営計画書並びに売り場の詳細な資料や厳格な図面を必要とした。従って、申請書類作成には、細心の注意と綿密な正確さ、そして何よりも実務的粘り強さが求められた。

水野係長はその実務の中心者となり、まさに不眠不休ともいうべき努力で、これに見事に応えられたと思う。

それでも売り場の回復は、年々、部分的にしか進まなかったのである。

毎年、同じような作業と申請作業を積み重ねて、ようやく全面復活したのは恐らく数年後であったろう。

経営企画室で、いま一つ私が関わったのは、「東京丸物の経営理念」の策定であった。私が原案を作り、それをたたき台にして草案にまとめ、最終的に役員会の承認を受けて社内に公表された。

消費者尊重の公正取引の理念を表現したものであった。。

<東京丸物・経営理念>

「ハンドバッグ・鞄売り場」

私の丸物での最後の職場が、ハンドバッグ・鞄売り場であった。初めて主任として、売り場全体の責任者となった。

ちょうど合成繊維や合成皮革の新製品が次々と発売され、レインボーカラー・ファションと名打たれて、華々しいファションの時代が始まっていた頃である。

(東京丸物・ハンドバッグ・鞄売り場の皆さんと)

《東京丸物労働組合のこと》

私は担当職務と同時に、労働組合活動にも、力を入れた。

東京丸物オープン半年後、紳士肌着売り場在勤中に東京丸物労働組合を結成し、確か書記長を二年、委員長を三年、副委員長を二年勤めたはずである。

今考えると、組合専従ではなく、担当業務をこなしながらのことであったから、これはまことに貴重な経験であった。

多種多様な組合員を一つの方向まとめ上げていくにはどうすべきか、また会社側との交渉で建設的に前向きに解決策を見出していくはどうすべきか、などの組織運営の本質を、労働組合活動の実践経験の中で体得し、磨きあげていくことなったからである。

このことは≪サンチエーン創業物語≫(第3回)にすでに書いているので、ここでは詳述しないが、思い出の写真をいくつか紹介しておきたい。

 

(東京丸物労働組合大会風景)

(メーデー行進に参加)

《丸物同窓会のこと》

「東京丸物会」

私が 東京丸物を退社し、外食ビジネスの修行を始めてからも、丸物との縁が切れることはなかった。

サンチエーンを創業してから数年後に、大先輩の新藤元専務店長(故人)や杉島元常務(故人)のお声がかりで、私が幹事役となり、「東京丸物会(互丸会)」をスタートさせた。

当時杉島さんは、東京丸物を退任され、六本木の「乃木神社・乃木会館」の館長を務めておられたので、ご厚意に甘えて10年近く、年に1度の互丸会会場として乃木会館を使わせていただいたことは忘れえぬ思い出である。

その後、岩田義行さんが、池袋サンシャインを会場に、10年ほどにわたり、熱心に世話役を務めて頂いた。

現在は辻村大司さん、安藤晴信さんが世話役を引き継がれて、「旧東京丸物会」と名称を変え、毎年1回の割合で開催が続いていることは、まことにご同慶の至りである。

東京丸物が看板をパルコに変えてから、すで50年の年月が経過しているから、会員も高齢化が進んでいる。

古参会員の中には、既に故人となられた方も多いので、出席者は年々減少の傾向にあるが、この会を楽しみにして、はるばる遠方から参加される方もいる。

最近は参加される人数も30名ほどに減っているが、 私もよほどの用事がない限り、努めて参加するようにしている。

(互丸会・東京丸物会写真)

(2014年度案内状)

「京都丸物会」

私が京都丸物本店に勤務したのは、新入社員としてわずか1年半ほどであった。

だが、その期間にご縁を頂いた方々とは、丸物の名が消えて京都近鉄百貨店と変わってからも、さらにその京都近鉄百貨店が閉店した後も、長年、何らかの形で交流が続いてきた。

京都丸物会は当初は、京都丸物OB社員を中心に平成6年に、「睦会」としてスタートしたが、平成15年からは「京都近鉄百貨店社友会」と名称を変えて運営が続いている。私も、毎年一月に開催される定例懇親会には概ね出席して、皆さんと旧交を温めることを楽しみにしている。

(京都丸物睦美会・京都近鉄百貨店社友会の写真より)

(平成27年度近鉄百貨店社友会案内状)

次号では「飲食業時代」を振り返りたいと思う。

(次号は「鈴木貞夫言行録」第6回を掲載します)