第268話 箸先一寸
平成26年江戸ソバリエ認定式より
「女性一人では、蕎麦屋に入りづらかった」。
11年前に、江戸ソバリエ認定講座を開始したころ、ある女性の江戸ソバリエさんがそうおっしゃっていた。
それが今、別のある女性は「仕事の帰りなど疲れたときは、よく一人で蕎麦屋に入る。カウンターで軽く料理を摘まみながらビールを飲んで、最後に美味しいお蕎麦を食べてから帰る」とおっしゃった。
世の中は「女性一人では入れない」から、「一人がいい」に変わったのである。
それに昔は、カウンターといったらプアなイメージがしたものだが、最近は女性好みのカウンターになってきているようだ。
変わったといえば、今から400年前に蕎麦が京都から江戸に伝わったころは僧侶や武士が、お椀に小分けしたお蕎麦に汁を「和えて」食べていた。それが、江戸中期ごろから町人が、現在のように笊にパラパラと盛られた蕎麦を猪口のつゆにちょっと「付けて」啜って食べるようになった。
この「和え物」というのは日本の史料で最初に出てくる料理である。以来、日本においては「和える」ことが王道であり、むしろ「付ける」というのが邪道であった。それが、江戸中期から江戸では蕎麦や握鮨や天麩羅など付けて食べるようになり、現代では逆転してしまった感がある。これだって大変化であろう。
時代が変われば、料理も、お蕎麦も、食器も、食べ方も変わってくる。それが世の習いである。
ところで、私たち江戸ソバリエは、平成20年ごろからお蕎麦の食べ方を話題にするようになった。だが、これには相当の抵抗があった。
「蕎麦の食べ方ぐらいでトヤカク言われたくない」と嫌がられ、とくに男性からは「飯ぐらい勝手に食べさせてくれ」と怒られた。多少の予想はしないでもなかったが、「う~ん、やっぱりそうきたか」である。
歴史をみると、日本において会食会らしき会食会が始まったのは鎌倉・室町時代の「御成」からであるらしい。御成とは、将軍が部下である大名の宴会に招かれることである。将軍とはいえ少人数で、何百人もの家来のいる大名屋敷へ乗り込んで行くのは大変に危険なことであった。現に、足利6代将軍義教は赤松満祐の邸での宴に招かれ、暗殺された(1441年)。それでも危険を承知で部下の邸に入るということから主君と家臣の信頼関係がわいてくる、というのが当時の武士の考え方であった。だから、こうした仕来りが生まれたのであるが、いざ膳の前に座った将軍は好き勝手な作法で飲み食いをすることになる。なにしろお客様が将軍様だから、酒だけ飲もうが、乱雑な喰い方をしようが、残そうが、部下である大名たちは何も言えない。その大名が今度は自分の家老格の邸に招かれた会食でも同様であり、そのまた部下の場合も然りであった。かくて「飲み方・食べ方なんてうるさいことを言うな。どうしようとオレ様の勝手だろう」。これがわが国の会食会のスタイルとなった。現代でも、ウルサイことをいえば煙たがられ、勝手と自由が混同する方が庶民的と好感をもって受け取られる雰囲気が根強く残っている。
余談だが、この万人に受け入られやすい「庶民的」という言葉には、「正義の味方」みたいなところがあって、これを持ち出されると「問答無用」と言われているような危険性があるのだが、そのことはここではおくとする。
一方の西洋の宴は、王様が臣下を自分の城に招くことである。当然、部下は失礼のないように常識的に振舞うよう心がける。
要は、西洋では宮廷料理というものがあったのだが、日本には(奈良・平安時代は別として)宮廷料理はない。イヤ、西洋というのは偏見で、中国も、朝鮮も、琉球も宮廷料理が存在し、日本だけがないのである。この盲点をついた小説『麒麟の舌を持つ男』では「大日本帝国食菜全席」を創ろうとする男の物語で大変面白かったが、話が段々脇道に入り込んでいくので、話を戻そう。
とにかく、宮廷料理の有無が、マナーの有無につながっていた。
ト、このようなことを申し上げると、日本には茶道や小笠原流などの立派な礼儀作法があるではないかとのご指摘があるが、そういうことではない。
茶道や小笠原流の作法は厳しい規律にちかい。たとえば高価な掛軸や茶碗を拝見して「雪舟ですね。李朝物ですね」とか何とかと洒落たことが言えるのは、それを学んだ上での鑑賞力である。だから、師匠から教えて頂かなければならない。
対してマナーとは、「できるだけ残さずに食べる」とか、「食べた後の食器は乱雑にしない」とか、子供でも理解できる社会的常識的なこと、大袈裟にいえば人が人として振舞う基本である。
なんていう屁理屈を長らく考えていたところ、昨年ぐらいからこの様相が変わってきた。つまり、お蕎麦の「食べ方」に関心を寄せられる方が増えきたのである。たとえばマスコミからの問い合わせも、「蕎麦の食べ方は?」ばかりが続く。変われば変わるものだと少々驚いていると、なかには若い女性を同行してきて「蕎麦の食べ方を教えてほしい」という雑誌社もあった。拝見すると、赤ちゃんが食べるときのスプーンのように箸を真正面から縦に運んで、口を窄めて食べる人もいる。
「はあ~!」と戸惑いながらも、なぜ箸とスプーンは違うのかをお話する。さらにはなぜお蕎麦を猪口のつゆにちょいと付けるかを説明する。だが、たいていの人はそんな理由は耳に入らない。「1/3ですね、1/3付ければいいんでね」と念をおされる。
「マナーとはマニュアルやルールではありません。判断力です」と心の中で申し上げつつ、ついつい頷いてしまう自分を反省し、最近は「1/3ぐらい」という風に、むしろ「ぐらい」の方を強調するようにしている。その余地から判断力が生まれることを願ってのことだが。
そんなとき、今年の江戸ソバリエ認定講座の、脳学レポートの中に「箸先一寸」というのがあった。だいたい毎年レポートを拝読していると、ドーンと胸に飛び込んでくるものが、一つか二つ必ずあるものだが、それが今年は「箸先一寸」であった。箸先の汚れは少ないほどよいという意味だが、久しぶりに聞いた言葉だった。それをお書きになったAさんも、「昔、父から言われたのを想い出し、そうしようと思った」と述懐されていた。蕎麦の食べ方に「箸先一寸」はないだろうが、B級グルメや立ち食いに人気が出ている今だからこそ、敢えて「箸先一寸」を引っ張ってきたAさんには価値があると思った。
そして、今の人は具体的数字の方が頭に入りやすいのなら、それにしたがってこれからは「箸先3cmぐらい」と申し上げようと思った。
参考:田中経一『麒麟の舌を持つ男』(幻冬社)
〔江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕