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農業写真家 高橋淳子の世界
ほしひかるの蕎麦談義【バックナンバー】

ほしひかる

☆ ほし ひかる ☆


昭和42年 中央大学卒後、製薬会社に入社、営業、営業企画、広報業務、ならびに関連会社の代表取締役などを務める。平成15年 「江戸ソバリエ認定委員会」を仲間と共に立ち上げる。平成17年 『至福の蕎麦屋』 (ブックマン社) を江戸ソバリエの仲間と共に発刊する。平成17年 九品院(練馬区)において「蕎麦喰地蔵講」 を仲間と共に立ち上げる。平成19年 「第40回サンフランシスコさくら祭り」にて江戸ソバリエの仲間と共に蕎麦打ちを披露して感謝状を受ける。平成20年1月 韓国放送公社KBSテレビの李プロデューサーへ、フード・ドキュメンタリー「ヌードル・ロード」について取材し (http://www.gtf.tv)、反響をよぶ。平成20年5月 神田明神(千代田区)にて「江戸流蕎麦打ち」を御奉納し、話題となる。現 在 : 短編小説「蕎麦夜噺」(日本そば新聞)、短編小説「桜咲くころ さくら切り」(「BAAB」誌)、エッセイ「蕎麦談義」(http://www.fv1.jp)などを連載中。街案内「江戸東京蕎麦探訪」(http://www.gtf.tv)、インタビュー「この人に聞く」(http://www.fv1.jp)などに出演中。
その他、エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員、「東京をもっと元気に!学会」評議員、「フードボイス」評議員、 (社)日本蕎麦協会理事、食品衛生責任者などに活躍中。

ほしひかる氏
1944年5月21日生

【5月号】
第23話 「王妃 カトリーヌ・ド・メディチ」

~ 食文化発展のモデル ~

 

 些細な事ではあるが、偶然ということは確かにあると思う。
 偶々、ある街を歩いていたら、「CATHERINE DE MEDICIS」というチョコレート・フランス菓子店を見つけた。昨日ある会合でフランス料理を堪能したばかりであったし、「16世紀のフランスの王妃カトリーヌ ・ド・メディチがフランス料理の基礎を築いた人」ということぐらいは耳にしていたから、「へえー、こんな名前の店があるのか」と興味をもって店に入ることにした・・・・・・。


 フランス料理は今でこそ世界に冠たる地位を築いているが、16世紀ごろはまだまだイタリアには及ぶべくもなかった。そのイタリアのフィレンツェのメディチ家からフランス王国の王子、後のヴァロワ朝第10代アンリ2世(1519~59)に嫁すことになったのが、当時14歳のカトリーヌ姫(1519~89)であった。彼女は、当時のフランスの宮廷では料理を手づかみで食べ、その料理の内容もお粗末だということを耳にしていた。それも無理からぬことであった。そもそもフォークが食器として使われはじめたのは11世紀のイタリアである。それまでヨーロッパのほとんどの国には、料理を口元に運ぶという用途の食器はあまり存在せず、せいぜい肉やパンを切り分けるためのナイフが食卓にあるだけで、基本的には食事は手づかみで食べていたのである。ちなみに、スプーンがヨーロッパで普及したのは、やっと17、18世紀になってから、さらにナイフ・フォーク・スプーンのセットで食事する形式が確立されたのは、つい先ごろの19世紀になってからである。
 とにかく、後進国へ嫁がなければならなかったカトリーヌ姫は、メディチ家の腕ききの料理人や、調理器具、食器、そして保存のきく食材や香辛料を相当量、フランスに持ち込んだ。このカトリーヌの料理に対する姿勢が現在のフランス料理の原型となって、フランス料理が一段と進歩したというわけである。
 彼女の実家のメディチ家の食器については、『西洋陶磁入門』の写真で多少は想像できる。つまり、ラスター彩陶器や、フィレンチェ郊外のアルノ川沿岸にあったカファッジョーロ窯で活躍した陶画家のヤコブ・ファトリーニの作品や、あるいはカトリーヌに製作を依頼された陶工ベルナール・バッシーなどが紹介されている。これらの陶器を眺めながら16世紀の食卓を想うのもまた楽しいことである。                     
 ところがである。王妃カトリーヌはフランス料理の礎を築いた女性というよりも、史上では悪女として名が知られている。 そもそも、王子と大富豪のお姫様との結婚というものは政略上からに決まっている。案の定、王子は19歳年上で、フランス史上に残る気品にあふれた永遠の美女といわれるヴァランチノア公妃ディアーヌ・ド・ポワチエ(1499~1565)と数十年間も愛人関係を続けていた。ディアーヌという女性がどのくらいの美女であったかというと、60歳になっても30代に見えたと伝えられ、フォンテーヌブロー派の画家たちは競って彼女をモデルにして絵を描いたという。それだから、1559年に夫のアンリ2世がトゥールネル宮殿での槍試合で致命傷を受けて亡くなると、王妃カトリーヌはすぐにディアーヌの住まいであったシュノンソー城を奪い取って彼女を追い出した。 いわゆる「女の闘い」が繰り広げられたのである。それからというもののカトリーヌの本性が発揮された。王妃には長男フランソワ2世、次男シャルル9世、三男アンリ3世の3人の息子がいた。カトリック対プロテスタントの激しい宗教戦争で内乱が続くなか、彼女は若き継嗣たちを支えるという形で、権力を振るい、毒殺、陰謀、大虐殺の首謀者と噂されながら30年の権力闘争に明け暮れた。そのなかでカトリーヌらしい点は、フランス周遊に料理長を随行させ、豪華な饗宴を催すことによって王室の尊厳を演出したことであった。しかしながら、やがてアンリ3世が暗殺され、そして女帝カトリーヌも没すると、13代続いたヴァロア朝はついに終焉をむかえたのであった。


 その後の王朝もカトリーヌ妃の王室の饗宴路線は踏襲された。「朕は国家なり」と宣言したことで知られるブルボン朝第3代ルイ14世(1638~1715)は大変な美食家であった。そのため宮廷料理が大いに発展した。ルイ15世(1710~74)の代には、料理を食べるときの礼儀作法が定式化された。ルイ16世(1754~93)とマリー・アントワネット(1755~93)の代でもますます発達したが、1789年に始まったフランス革命によって宮廷料理の時代はとりあえず幕を閉じた。ただし、革命は料理界にも大変革をもたらした。
 フランス・パリにおける専門的なレストランの開業は1765年ごろだと伝えられている。
(ちなみに、江戸の料理店は一世紀も早い1657年に出現している。)当初はコンソメとか、鶏のローストやオムレツのような簡単なものだけを出していたが、なかなか好評で、パリのレストランは急速に増えていった。そのようなときにフランス革命によってヴェルサイユ宮殿を追われたり、または失脚した貴族の下にいた料理人たちは職場を求めて街に出た。レストランは花盛りとなり、庶民もある程度の収入があればレストランで宮廷料理のように優れた料理を味わうことが可能になった。
 こうした流れにのって、優れた料理人たちが次々に現れた。たとえば、マリー・アントワーヌ・カレーム(1784~1833)は、それまでのフランス料理に大いに工夫を加えた。当時の料理はありったけの料理をテーブルの上に出していたが、カレームは寒冷なロシアで料理を冷まさず供していることにヒントを得て、一品ずつ出すようにしたのである。こうした進展性は優れた弟子オーギュスト・エスコフィエにも引き継がれた。彼はコース料理を考案したり、フランス料理のバイブルといわれる『料理の手引き』(1903年)を著したりした。また、1970年代にはボキューズたちが日本の懐石料理を取り入れて、軽いソースや新鮮な素材を活かした新しい料理を創った。
 フランス料理界の発展は、 ①こうした料理人の腕だけではなかった。 ②味の良し悪しを批評する食通的職業も生まれ、19世紀前半にはブリア・サヴァランが『美味礼讃』を著して美食学を確立したことも大きく寄与した。 ③さらには1900年ごろから『ミシュランガイド』などのレストランの格付けを行うガイドブックが発刊されるようになった。(ちなみに、わが国では早くも1777年に江戸の料理店31軒のランク付けが、名物評判記『富貴族地座居』でされている。) ④もちろん優れたレストラン経営者が辣腕を発揮した。これらがフランス料理界全体を引き上げていったのであった。


 「CATHERINE DE MEDICIS」を契機にしてフランスの料理界を見てみると、「文化の発展とは総合戦略である」とのモデルがそこに見られるようである。そしてそれは日本の料理界も同じであろう。

参考:O・ネーミ、H・ファースト著『カトリーヌ・ド・メディシス』(中公文庫)、桐生操著『王妃カトリーヌ・ド・メディチ』(福武文庫)、大平雅巳著『西洋陶磁入門』(岩波新書)、アントニー・ローリー著『美食の歴史』(創元社)、渡辺善次郎著「世界を駆ける日本型食生活の変遷」(KIKKOMAN FOOD CULTURE)、宇田川悟著『食はフランスにあり』(小学館ライブラリー)、
写真:チョコレート・フランス菓子店「CATHERINE DE MEDICIS」、

 

 

第24話は「献上、寒晒し蕎麦」を予定しています。

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