☆ ほし ひかる ☆ 昭和42年 中央大学卒後、製薬会社に入社、営業、営業企画、広報業務、ならびに関連会社の代表取締役などを務める。平成15年 「江戸ソバリエ認定委員会」を仲間と共に立ち上げる。平成17年 『至福の蕎麦屋』 (ブックマン社) を江戸ソバリエの仲間と共に発刊する。平成17年 九品院(練馬区)において「蕎麦喰地蔵講」 を仲間と共に立ち上げる。平成19年 「第40回サンフランシスコさくら祭り」にて江戸ソバリエの仲間と共に蕎麦打ちを披露して感謝状を受ける。平成20年1月 韓国放送公社KBSテレビの李プロデューサーへ、フード・ドキュメンタリー「ヌードル・ロード」について取材し (http://www.gtf.tv)、反響をよぶ。平成20年5月 神田明神(千代田区)にて「江戸流蕎麦打ち」を御奉納し、話題となる。現 在 : 短編小説「蕎麦夜噺」(日本そば新聞)、短編小説「桜咲くころ さくら切り」(「BAAB」誌)、エッセイ「蕎麦談義」(http://www.fv1.jp)などを連載中。街案内「江戸東京蕎麦探訪」(http://www.gtf.tv)、インタビュー「この人に聞く」(http://www.fv1.jp)などに出演中。 |
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ほしひかる氏 | ||
【9月号】
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麺喰いとしては、この複雑な沖縄そばの出生の秘密を探ってみないわけにはいかない。 と思って、その知人に尋ねたり、本で調べてみると、どうやら元は琉球王朝の宮廷料理にあるようだ。 琉球の歴史には三山時代(1322~1429)というのがある。つまり、北山(今帰仁村周辺)、 中山(浦添市・首里周辺)、南山(糸満市周辺)の三つの地域が国として鼎立していたのである。 そのなかの中山の察度王という人物が琉球史上初めて明国(太祖渋武帝)に入貢し(1372年)、 留学生を送った(1392年)。察度という王は天女の子だという伝承をもつぐらいの英雄である。 さぞや英明で、かつ新しい文化に対しても貪欲な人物であったのだろう。続く、 察度王統2代目の武寧王も明との朝貢貿易を開始し、明の永楽帝も大勢の冊封使を琉球に遣わした(1404年)。 当然、遅れをとってはならぬとばかりに、北山、南山も明に入貢した。 このころ、中華麺は福建省から琉球に伝えられたというが、なかでも当時、最も進取の気象に富んでいた 中山国の察度王統にいち早く麺が献上されたであろうことは十分想像できる。ただ、この麺は、沖縄では採れない 小麦粉製であるため、主に宮廷料理、あるいは中国からの使者をもてなす料理だけに限られていたらしい。 さらには、宮廷料理に欠かせないものがある。豚肉料理である。琉球王が替わる度に中国皇帝の 使者が数百人も訪れたが、その接待に豚肉料理が活躍したのである。それを可能にしたのは、①沖縄の気候が 養豚に適していること、②飼料であるサツマイモ栽培が盛んであること、であった。その伝統が今に続き、 沖縄の食生活は「豚肉に始まり豚肉で終わる」と言われるほど豚肉をよく使い、後で述べるように沖縄そばにも 活用されるのである。 ちなみに、琉球王朝の三山時代は約100年続いたが、やがてその中から中山の尚氏が勢力を増し、 1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼして琉球を統一し(第一尚氏王統)、その後の琉球王朝は第二 尚氏王統へと続くことになるのである。 というわけで、沖縄のそばの第1期は琉球王朝の宮廷料理だったということになるが、 それを民間人が食べるようになったのは明治後期からである。明治35年、ある日本人が連れてきた清国人コックが那覇に 支那そば屋「観海楼」を開いたが、それが今日の沖縄そばの直接のルーツであるとされている。続く明治39年には「観海楼」の 従業員であった比嘉ウシが支那そば屋「比嘉店」を開業し、民間の富裕層の間で人気を二分するようになった。 これが沖縄のそばの第2期であるが、その清国人コックの「観海楼」や、比嘉ウシの「比嘉店」には各々の 創業物語があるのだろう。ただ、そのころは鹹水ではなく、琉球染めにも利用されていた灰汁を使っていた。 その灰汁というのは、ガジュマル、モクマオウ、イタジーなどの亜熱帯の樹木を切って、30㎝刻みにカットとして、 約2か月間干した後に、燃やして作った灰を水に入れた上澄みであるというが、この灰汁と小麦粉を混合して麺を打 つのである。このような伝統的な製法の麺は、今日では特に木灰そば(もっかいそば)と呼ばれている。 やがて、大正時代になると、街中にそば屋が増え、庶民が気軽に食べられるようになった。 これが沖縄のそばの第3期である。ただ、当初は豚肉をベースにした醤油味の汁で、具も 豚肉と細ネギのみだった。 その後沖縄人の味覚に合わせた改良が重ねられ、大正2年に細切りの沖縄カマボコを具とするようになった。 そして、このころから「琉球そば」(昭和47年の本土復帰後から「沖縄そば」)と言うようになった。 さらに、大正9年には紅ショウガを入り、塩味で透明なスープになった。 また、好みでピパチやコーレーグース(島唐辛子の泡盛漬け)も用いるようにもなった。 こうして、蕎麦でも、パスタでも、ラーメンでも、うどんでもない、不思議な風味の沖縄そばが完成していったのである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ この不思議さを考えているうちに、わが国には二つの文化渡来コースがあったことを思い出した。 ① 中国→琉球→南九州→奈良・京都→江戸 ② 中国→朝鮮→北九州→奈良・京都→江戸 中国文化は先ず九州に上陸する。その時点で、琉球や南九州、北九州に留まったまま独自の進展を遂げたものも あるのだろう。その後、文化は気流にのって東漸し、都に向かう。 麺の場合、琉球に留まって独自の進化をしたのが、沖縄そばだった。そういう意味で、 沖縄そばには日本の麺の原初的なものが遺っているのではないだろうか。 参考:沖縄の人たちの話、『日本の郷土料理12―九州Ⅱ・沖縄』(ぎょうせい)、下川裕治著『アジア迷走紀行』(徳間文庫)、加藤純一著『ヒネリの食文化』(プレジデント社) 〔江戸ソバリエ認定委員・(社)日本蕎麦協会理事 ほしひかる〕
第28話は「命の炎の はし渡し」を予定しています。 |
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