2007年4月より放送開始する食の動画報道番組「フ―ドボイス」に、
鈴木貞夫のインタ―ネット「商人元気塾」を開講いたします。
私の流通人生50年の実践経験を踏まえながら、皆さまと共々に、
「商売の原点」と「21世紀の商人道のあり方」を探求して参ります。
先ずはコンビニ人生30年の「コンビニ創業戦記」から始めたいと思います。
<コンビニ創業戦記> 第1回 ・・・ロ―ソンのル―ツ「サンチェ―ン創業物語」・・・
「エピロ―グ」
私は平成18年(2006)5月、30年間勤めたロ―ソンを退職した。
昭和9年(1934)1月生まれであるから、今年で73歳になる。
古希をとうに過ぎているが、思えば流通一筋に50年・半世紀を歩み続けてきたことになる。
これまでの流通経験を大まかに振り返ってみると、20代に百貨店生活約10年、30代に外食産業に約10年、40代からはコンビニ経営一筋に約30年と流通の仕事に一貫して携わってきた。
その時々に、業種、業態、企業は移り変わったが、どうやら必然の道を歩み続けてきたような気がする。
改めて後述するが、百貨店(京都丸物と東京丸物)では、「関西商法のイロハ」を、外食産業(ボナパルトとハワイチエ―ン)では、「チェ―ン経営と組織管理のコツ」をと、流通マンとしての掛け替えのない体験を積むことが出来たが、取分けコンビニ(サンチェ―ンとロ―ソン)経営に関わったこの30年は、日本に於けるコンビニの歴史、その開拓期から成長・発展期、そして現在の社会的生活インフラとしての定着・成熟期に至る期間と軌を一にしており、格別の感慨を禁じえないのである。
最近ややその勢いは鈍っているように感じられるが、それでも店舗数約5万店に近く、市場規模も百貨店を凌駕しており、21世紀の日本流通に於ける主役の一つの柱としての機能を果たしていることは衆目の一致するところである。
流通人生50年、日本の流通革命のプロセスにコンビニ創業世代の一人として、微力ながら参画できたことは、この上ない喜びであり、また誇りでもある。
その間、幾たびと無く大きな試練に遭遇したが、その節目節目に、必ず「良き師」「良き友」「「良き書」との出会いという幸運に恵まれた。
その出会いに導かれ、助けられて、熾烈な流通戦国時代を生き抜くことが出来たと思う。
食の動画報道番組「フ―ドボイス」が新しく放送開始するこの機会に、私の流通人生50年を振り返り、ご参考に供したいと考える。
「一橋時代」
<河合栄治郎著作集との出会い>
私の流通人生の原点は、どうやら学生時代にあるような気がする。
昭和27年(1952)サンフランシスコ講和条約締結の翌年、私は鹿児島県立川内高校から、一橋大学商学部に入学した。
当初、私には大學で何を学び、どんな人生を送るかという明確な考えはなかった。
入学後間もなく、戦後史に有名なメ―デ―事件の頃、騒然たる社会的雰囲気の中でたまたま入った高円寺の古本屋で目に付いたのが、河合栄治郎の「学生生活」という本であった。有意義な学生生活をおくるにはどうすべきか、その指標が格調高き名文で書かれていた。
これがきっかけで、河合栄治郎の著書を探し回った。
「学生に与う」「社会政策原理」「T・H・グリ―ンの思想体系」「自由主義の擁護」「英国派社会主義の研究」などを次々と買い求め、熱中して読んだ。
苛烈な軍国主義の弾圧の中で、自由と民主主義による社会的公正の実現を唱えるその思想と、過酷な時代状況の中でも、自分の信念を貫き通した凄烈な生き方に、身も心も揺さぶられるような深い感動を受けたのである。
当時はマルクス経済学とケインズ経済学が相対立する主流であったから、私は如何にも時代遅れだったような観があるが、21世紀初頭の今日、世界は大きな混迷の転換期にある中で、河合栄治郎が主張した道は、人類に明るい未来を切り拓く有力な選択肢の一つとして、大きな意義を持つものと思われるのである。
河合栄治郎の人格的理想主義と戦闘的自由主義は、その後私の人生観の基本的な枠組みになっていく。
従って、その頃の私は社会思想的な関心だけが強く、将来の方向も漠然とジャ―ナリストの世界に憧れていた。経営学専攻の藻利ゼミに参加していながら、経営学の実務的理論に余り興味が持てないでいた。
<恩師藻利重隆教授>
昭和30年(1955)春、卒業論文テ―マ選定の時である。
「自由企業の将来」という大きなテ―マを考えて、恩師藻利重隆教授にご相談申し上げた。
藻利先生は即座に、「キチンと基礎を勉強しなければいけない」と言われて、忘れもしないドイツ経営学の古典的名著「DER GEWINN KAUMANISHEN UNTERNEHMUNK」(商企業利潤論)を、原書で読んでまとめるようにと指導して下さったのである。
それから約一年、苦手のドイツ語と会計理論の悪戦苦闘することとなったが、どうにか「優」の評価を頂き、卒業することが出来たのである。
当時は、自らが商業の世界に入ることとなり、先生に決めていただいた卒論テ―マ「商企業利潤論」の実践、即ち、商人の道を50年一貫して歩み続けることになろうとはいささかも予想してはいなかった。
<一橋祭での出会い>
加えてもう一つ、学生時代にどうしても忘れ得ないビジネスの原体験がある。 大学3年の時、学生寮委員長をしていた私は、毎年秋に恒例で開かれる大學伝統の「一橋祭」で「N響コンサ―ト」を、寮主催で開催した。
当時,日比谷にあったNHK交響楽団との交渉やポスタ―、プログラム作り、協賛企業スポンサ―の開拓、そして入場券の販売と、武井、鈴木(徹)、塚原、渡辺君など寮友たちと夢中で取り組んだ。
文化の日、兼松講堂に於けるこの「H響コンサ―ト」は人気を呼び、大入り満員となり収支的にも大成功となった。
収益金で、寮の図書を購入、充実させた上、打ち上げ会で僚友たちと盛大に乾杯したことを昨日のことの様に覚えている。
この私にとっての初めてのビジネス経験が、やがて「丸物百貨店」に入社することに繋がるのだから、今考えると人生行路における奇しき運命という他は無い。
というのも、そのころから私には卒先一騎駆けの癖があったと思う。
コンサ―トの入場券の販売は、寮委員たちがそれぞれ分担したが、私は当時中央線国立駅近くにあった国立音楽大学の女子学生寮に、単身乗り込み、そこの自治会役員を通じて、入場券を大量に売り捌く道をつけたのである。それがきっかけで、国立音大の女子学生さんたちと寮生同士の交際が始まった。
その中に、「丸物百貨店」(京都本店)の重役の娘さんという素敵な大里嬢がいたのである。
この出会いが無ければ、それまで百貨店とはまったく無縁で、「丸物」という名前すら知らなかった私が、商業の道へ進んだかどうかは分からないと思う。
大学4年の秋、朝日新聞やNHK等のジャ―ナリストへの道に失敗した私は留年もならず、「どこへ入ろうか」と大学の学生課で求人の案内を見ていた時、当時東京の池袋へ進出を計画していた「丸物百貨店」の名前を發見した。
「何だ。大里さんのお父上の会社ではないか。よしここを受けてみよう」と躊躇いも無く決心した。
そのころ百貨店をはじめ小売業に就職しようと言う同期生は、一人もいなかったと思う。
就職担当の学生課長は、「そんな先輩のいない会社よりまだほかに良い会社があるだろう」と云ってくれたが、聞く耳を持たなかった。
これが私の流通人生のスタ―トとなるのである。
「丸物百貨店」の東京進出要員ということで採用試験を受けた。
会場は新宿の近くだったと記憶している。
何回かのテストや面接が繰り返された後、採用されたのは関東、関西の大卒31名であった。
その後、31名の同期入社仲間はそれぞれの人生を歩むことになるが、昭和31年度、31名の仲間と言うことで「三一会」という同期会を作り、時々の親交を深めることになる。
今でも折を見て、有志が集まり旧交が続いている。
(以下次月号)
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