<コンビニ創業戦記> 第2回
・・・ロ―ソンのル―ツ「サンチェ―ン創業物語」・・・
「京都丸物百貨店時代」
学生時代、私は百貨店とは、ほとんど無縁であった。
勿論、三越や高島屋、伊勢丹などという東京の老舗の名前は知っていたが、その頃の学生がデパ―トに買い物にいくようなことは余りなかったし、私は百貨店に関する知識は何も持っていなかった。
私が百貨店について本格的に勉強し始めたのは、「丸物」への入社が決まってからのことである。
「丸物」への就職が決まった昭和30年(1955)と言えば、いわゆる55年体制がスタ―トした年である。
保守合同による自由民主党の發足と左右社会党の統一が実現し、戦後日本の分岐点となった年であった。
昭和30年度経済白書は、声高らかに「もはや戦後ではない」と宣言した。
敗戦後10年を経て、戦災の焼け跡の中で、飢えと生活物資不足に苦しんだ戦後の大混乱期を漸く乗り越え、新しい日本経済の成長が始まろうとしていた。
私の流通人生は「丸物」から始まった。
「丸物」は、創業者中林仁一郎社長が一代で築き上げられた百貨店で、私が入社した頃には、まだ健在であられた。
当時既に、京都本店の他に、名古屋、岐阜、豊橋、浜松、津、甲府、八幡などに「丸栄」、「松菱」といったグル―プ店を含めて有力な地方百貨店に成長しており、念願の東京進出を成功させて、全国百貨店化しようと強い執念を燃やしておられた。
「関西商法のイロハを学ぶ」
昭和31年4月、「丸物」入社。初任給は10500円であった。
京都本店1階の紳士肌着売場に配属となった。東京進出要員としての研修も兼ねていた。
上司は、平井他忠之丈部長、前橋修三課長、小西修次係長であった。
接客の仕方や商品知識、計数管理、売場管理そして仕入れといった百貨店の実務知識と基本技術をいろいろ親切丁寧に教えて頂いた。
平井部長には、翌年の秋、東京転勤時に売場の同僚であった妻道子と職場結婚する際に仲人をお願いすることとなる。
前橋課長は、「百貨店の教科書を書くつもりで勉強しなはれや」と、繰り返し話された。後に、東京丸物でもご一諸に仕事をさせて頂き、大変に御世話になった。
小西係長は、「商売人はソロバンが使えなあかんで」と、何度も強調された。
電卓もコンピュ―タ―もない時代のことだ。ソロバンが出来なくては、仕事にならなかったのである。
私は入社当初、ソロバンが使えずとても苦労したが、一年ぐらい経った棚卸検算の頃には、「えろう上手うなったなあ」と誉められるほどに上達した。
今でも無意識に関西弁が出て、「関西出身ですか」と言われることがあるが、あっという間に、「儲かりまっか」「ぼちぼちでんね」といった関西商人の挨拶言葉の染まっていった。
すべてが新鮮で、刺激的であり、毎日が新しい發見の連続であった。
お三人は、西も東も分からぬくせに自我だけが強い私に、恐らく梃子摺られたのではないかと思っている。と言うのは、私が新入社員でありながら、仕事以外の活動にも、熱心に取り組んだからである。
<太陽の会>
その一つは、入社後3ヶ月の試用期間を終えると直ぐに、「太陽の会」という読書サ―クルを作ったことである。
船越さん、多田さん、福原さん(何れも旧姓)たち女性社員を中心に、15名前後が毎週一回、お寺などに集まって読書会を開いた。
みんなで会場の手配や、連絡、司会運営と役割を分担しながら、20回ぐらいは続いたと思う。
林芙美子、壷井栄、岡本かの子など女流作家の本が多かった。
お茶菓子を食べながら、交代で朗読しては、感想を述べ合うというものだった。
自然に、職場の悩みや問題点も話し合われるようになった。
その頃の百貨店は、外面的には華やかな女の園というイメ―ジだったが、内部に入って見ると全くの男中心の社会であり、女性はあくまで補助的に扱われる保守的な職場であった。
読書を通じて、女性の主体性を喚起したいという気負いが、私にあったかもしれない。
「太陽の会」という名称は、「職場を明るくする太陽になろう」との素直な願いを込めて名付けたものだ。一橋大学同期の石原慎太郎(現東京都知事)が、『太陽の季節』で在学中に芥川賞をとり、注目の新人作家として既に世に出ていたが、以来、「太陽」は私のキ―ワ―ドでもあったからである。
後に「サンチェ―ン」の命名にもつながっていく。
<労働組合活動>
今ひとつは、労働組合の活動に積極的に参加したことである。
入社して6ヶ月が経った昭和31年秋、全丸物労働組合京都支部執行委員の改選が行われた。
私は新入社員ながら立候補した。「明るい職場作りと経営の近代化」という私の正義感からである。
初めから成算があった訳ではないが、開票結果を見ると10名の当選者の中で、圧倒的なトツプ当選であった。女子組合員の支持が多かったと思う。
選挙運動のつもりで「太陽の会」をやっていた訳ではないが、結果的には強力な支援の力となったのだろう。
また、新入社員「三一会」の仲間達も暗黙の応援をしてくれたのではないかと思っている。
それから間もなく開催された全丸物労働組合の定期大会で、中央執行委員にも選出され、組合活動に没頭することになる。
労働組合活動は、学生時代に河合栄治郎によって触発された私の社会的、思想的関心の具体的な発現であったともいえる。
保守的で、閉鎖的な企業風土の中に、近代的な労使関係を作るべきではないかと当時の組合三役であった立入千秋さん、押田政幸さん、斎藤義也さんなど先輩役員の人たちと夜遅くまで討論を闘わせたのも、懐かしく、忘れ難い思い出である。私の労働組合の活動は、後に東京丸物で更に本格化することになる。
この京都丸物時代は、僅かに2年足らずではあったが、私にとっては「商いの原点」を教えられただけではなく、その後の流通人生の基盤ともなるべき得難い知識と経験を数多く積ませて頂いたのである。
昭和32年(1957)秋、長年準備が進められていた東京丸物(現池袋パルコ)開店の日が近くなり、東京転勤が発令される。
私はひそかに好意を寄せていた職場の同僚、旧姓東沢道子にプロポ―ズした。
忘れもしない昭和32年10月27日、平井部長の媒酌で、私は妻と、菊薫る平安神宮において挙式した。共に、23歳であった。
その夜遅く、夜行列車で東京に出発した。勿論、新幹線はまだ走っていなかった。転勤が即ち新婚旅行であった。
深夜10時頃であったにも関わらず、両親、親族に加えて、後に京都近鉄百貨店(旧京都丸物)の社長となられる若林誠朗さんや鍛冶正行さんをはじめ先輩の方々、そして「太陽の会」、労働組合及び職場など大勢の人々が見送りに来てくれた。
その時、列車の窓から見えた晴れやかなどよめく光景は、私の瞼に眩いばかりに焼きついている。
今でも、その方々の顔が走馬灯のように鮮やかに浮かんでくる。
かくして、いよいよ東京丸物時代が始まる。
(以下次月号)
|