<コンビニ創業戦記> 第4回
・・・ロ―ソンのル―ツ「サンチェ―ン創業物語」・・・
「東京丸物時代」<Ⅱ> 「独立への模索」
昭和35年(1960)春、中林仁一郎社長は70歳で、惜しくも志半ばにして急逝される。
近江商人特有の商売熱心さと強烈な個性で、丸物グル―プの急成長を引っ張ってこられた創業社長の突然の死とともに、企業としての求心力が急速に失われていくこととなったのは、痛恨の極みであった。
その後東京丸物は、10年も経たない昭和40年代初めに百貨店としての営業を終え、現在の池袋パルコに変身して現在にいたることになる。
又、京都丸物も、昭和55年(1977)に京都近鉄百貨店と変わり、丸物の名称は消えたのである。
以来約30年続いた京都近鉄百貨店も、今年平成19年(2007)2月完全閉鎖し、建物を取り壊す事になったという。
世の有為転変、栄枯盛衰と人の寿命は如何ともすることが出来ないが、中林仁一郎社長にはもう少し長命でいて頂きたかったと切に思っている。
私は、池袋の護国寺で盛大に執り行われた東京丸物社葬で、従業員代表として涙ながらに弔辞を述べたが、心の中の空虚感をどうする事も出来なかった。
今考えると、その頃から私の中に、丸物への訣別の念が去来し始めたと思う。
自分では、会社と言う組織に捉われずに働いている積もりであったが、「会社秩序の中にいたのでは、なかなか自己改革は出来ないのではないか」という迷いが生じていた。
労働組合活動も長く続けていると、多少はボス化して、会社との緊張感も薄れてくる。
これが男子一生を賭けるものなのかという迷いである。
「独立したい」「自分で事業をしたい」と無性に感じていた。
その当時、山岡荘八の歴史大河小説「徳川家康」が、ブ―ムを呼び始めていた。
私は何かに取りつかれたかのように信長、秀吉、家康などの戦国武将伝やナポレオンの英雄伝記ものを読み漁った。
又、あの日本をどん底に落とし込んだ15年戦争と、その中で翻弄される庶民の運命を見事に描いた五味川純平の反戦平和長編「人間の条件」もロングセラ―になっていた。
私自身、外地からの引揚者であり、戦時中は純心な軍国少年の一人であったから、歴史に苦悩する人間の運命を、身につまされるような共感を持って読んだ。
そんな時に、同じ五味川純平作の「孤独の賭け」と出会ったのである。
一冊の本で、人間の運命が決まる事もあるのだ。
「ある野心的な青年が、キャバレー業界に入り、キャバレー王をめざして果敢な挑戦を続けながら、金と欲の熾烈な人間模様を描きながら、やがて挫折していく」というスト―リイだったと記憶しているが、私もこういう生き方をしてみたいと真剣に考えたのである。
この「孤独の賭け」はテレビドラマ化され、今は亡き天地茂が主演、小川真由美が新人女優としてデビュ―し評判となった。まだ、白黒テレビの時代である。
本年4月になって、「孤独の賭け」は再刊されたばかりでなく、テレビドラマとしてもTBSで、装いも新たに再登場していることは、懐かしい限りである。
その頃は昭和36~38年(1961~63)、東京オリンピック前のことで、至る所で新幹線や高速道路、競技会場施設などの大型工事が行われていた。
独立する近道は飲食業しかないと思っていた。
昭和39年(1964)3月、私は東京丸物に辞表を提出した。30歳になっていた。
飲食業の修行の場として、労働組合活動の仲間であり、既に独立を果たしていた玉田三郎さんが経営するレストランでお世話になった。
2年ほどの間、神田にあったレストラン「けやき」や日本橋のティル―ム「セドリック」などの店で、皿洗いや、ドアボ―イ、ウエイタ―などの修行を続けながら、独立のための準備と条件を整えたのである。
一つは、勉強のために読んでいた雑誌「月刊食堂」で、渥美俊一先生のチェ―ンストア理論を知ったことである。
飲食業の水商売的非近代性の克服とチェ―ン展開に基付く外食産業構築の壮大なロマンに満ちた渥美理論に、鮮烈な感銘を受けた。
私は求めていた使命感を得たと確信した。
二つは、後述するが、ビア―レストラン『ボナパルト』の事業化アイデアを具体的に練り上げた事である。その頃、銀座電通通りに、「ロ―ゼンケラ―」という本格的なドイツ風ビアレストランが有名で、大繁盛していた。
凝った重厚な内装に、当時珍しい金髪のウエ―トレスが陽気に動き回り、アコ―デオン奏者が賑やかに乾杯の歌を演奏する、本場の雰囲気を満喫させるお店であった。
私は度々この店に通い、研究し、『ボナパルト』の構想を組み上げた。
三つは、共同経営者となる石塚亨さんや、プロ調理師さんたちとの人脈を作り上げた事である。
石塚さんは、レストラン実務のベテランであり、温厚かつ誠実な人柄であった。共に、力を合わせ、奮闘していくことになる。
それに加えて、幾つかの幸運が重なった。
一橋大学同期、同じ藻利ゼミ学友の野島勇君(東京ビジネスサービス社長、平成7年惜しまれて鬼籍に入る)の紹介で、日本橋三越前の好立地に、保証金ゼロ、家賃のみの40坪の店を借りる事が出来たからである。
野島社長が創業した東京ビジネスサービス(株)は、今では全国のビルメンテナンス業界でも有力大手企業に成長しているが、当時はビルメンテ業も先の見えない萌芽期であり、そこに着目して挑戦した野島君の慧眼に深く敬意を表したい。
野島社長は、学生時代から朴訥ながら大人の風格を持つ器量の大きい魅力的な男であったが、その彼に対する得意先ビルオ―ナ―の厚い信頼のお陰で、私に有利な条件での独立のチャンスが廻ってきたのである。
持つべき者は友と云うべきであろう。
「ボナパルト時代」<Ⅰ>
「日本橋ボナパルト」
石塚亨さんと二人で設立した(株)ボナパルトの資本金は130万円であった。これでは内装費どころか、仕入れもままならない。
私は窮余の一策で、当時のサントリ―佐治敬三社長に直訴状を書いたのである。勿論、一面識も無い。
今思えば、無鉄砲で冷や汗ものであるが、独立したい一心、お店を始めたいという若さの一念であった。佐治社長に、自分の事業計画と青雲の志を、拙い字で一生懸命に書き上げて出した。
サントリ―がビ―ル業界に進出した時期であり、もしかしたらという一縷の望みからである。
サントリ―には、これまた大學同期、同ゼミの泉道男君がいた。
暫くしてから、泉君から「鈴木君、内の社長にこんな手紙出したのか」と電話が掛かってきた。
「相談に乗ってやるから来い」というわけで、信用金庫を紹介してもらい、そこから300万円借り入れする事が出来た。
石塚さんとともに、コックさんやウエイトレスなど従業員の募集や店舗の内装設備工事に、無我夢中で取り組んだ。
かくして、昭和41年(1966)6月、日本橋三越前にコルシカ風ビアレストラン『ボナパルト』を開店した。
云うまでも無く、『ボナパルト』はかのナポレオンの苗字である。
近代世界を切り拓いた英雄ナポレオンの生涯は、光と影、栄光と悲劇、勝利と敗北という劇的な波瀾に満ちたものであるが、皇帝となり独裁化してゆくナポレオンよりも、フランス革命の理想と野心に燃えて困難と混迷を乗り越え、新しい時代の夜明けを開いてゆく将軍ボナパルトに、力強い太陽のような輝きと一段と惹き付けられる魅力を感じていた。
店名『ボナパルト』の命名には、「日本の飲食業界のボナパルト将軍たらん」との夢が託されていた。
日本橋『ボナパルト』は有り難いことに大盛況であった。
スタンダ―ルの「赤と黒」に因んで、お店のコ―ポレ―トカラ―を、赤と黒にした。
私自身、ジュリアン、ソレルを気取りナポレオン軍の制服、制帽、長靴に剣で陣頭指揮。
ウエ―トレスも黒い上着に赤い7分ズボンのコスチュウムで、ナポレオン風に統一した。
メニュウもコルシカ風フランス料理と称して、ナポレオンゆかり名称でデザインした。
更に、先述した銀座のドイツ風ビヤ―レストラン「ロ―ゼンケラ―」のギリシャ人名エンタ―テナ―「クリス」さんと、第一級アコ―デオン奏者井上宜美さんを、通いつめてスカウトしたのである。
今思うと余りにも大胆な行動であった。
(以下次月号)
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