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鈴木貞夫のインターネット商人元気塾
鈴木貞夫のインターネット商人元気塾【バックナンバー】

農業写真家 高橋淳子

1956年一橋大学卒、同年現池袋パルコ入社、1976年サンチェーン代表取締役社長、


1989年ダイエーコンビニエンスシステムズ代表取締役副社長、1995年ローソン相談役、


1999年ローソン親善大使。現在ソフトブレーン・フィールド(株)特別顧問。


1992年(社)日本フランチャイズチェーン協会常任理事、副会長を歴任 。鹿児島出身

鈴木貞夫氏(すずきさだお)
1934年1月3日生

【8月号】


<コンビニ創業戦記> 第5回
・・・ロ―ソンのル―ツ「サンチェ―ン創業物語」・・・


「ボナパルト時代」<Ⅱ>


日本橋ボナパルトを開店してから間もなく、日本橋室町の「三越本店」が、「大ナポレオン展」を開催した。
英雄ナポレオンゆかりの歴史的な記念品の数々を日本で始めて展示する、大規模なイベントで、大評判となり、大変なフランスブ―ムを起きた。
私は、これ幸いと、すぐに三越の宣伝部を訪問した。
当時の宣伝部長は、やがて三越の社長となり、全国に有名を轟かされる岡田茂さんであった。
私が「ナポレオンをテ―マにしたお店を直近くでやっています」と挨拶すると、とても喜んで気軽に応対され、「じゃあ飲みに行こう」と、その夜大勢の部下を連れて来店してくれたのである。
ナポレオンのポスタ―やイベントの宣伝物を、「お店に飾るように」といろいろとプレゼントしてくれた。それを機会に、三越の社員達が、入れ替わり立ち代り利用してくれるようになった。
その頃の岡田さんは、ワンマンの感じはなく、豪快な人柄ながら、温厚なデパ―トマンのイメ―ジであった。
そういう縁もあって、日本橋ボナパルトの滑り出しは極めて順調であった。


「銀座ボナパルト」
日本橋ボナパルトを開店してから半年ぐらい経った頃、常連になっていたお客様の一人から、「銀座にもお店を出さないか」という申し出を受けた。
戦後間もなく、東京都議会の副議長を勤められた事のある片桐勝昌さんと言う方で、銀座や池袋などにビルを持って居られるという。
銀座は、何と云っても日本一の盛り場、飲食業にとって憧れの場所である。
「開業間近で、資金がありません。敷金・保証金なし家賃だけでお借りできますか」と申し上げた所、「良かろう」と快諾していただき、私は飛びついた。
繁盛しているとは云っても、日本橋ボナパルトは開店したばかりであったから、工事業者に頼んで、手形払いで内装工事を始める事にした。
当時は今と違い、手形發行は極めて簡単であった。
銀行口座さえあれば、手形用紙は文具店で売っていたのである。
業者の依頼に応じて、工事代金の全てを手形で前払いした。
「好事魔多し」とはよく云ったものだ。
ここに落し穴があったのである。
というのは、その工事業者が、内装工事未完成のまま、工事半ばで倒産してしまったのである。
新たに業者を探して、仕上げ工事を頼まざるを得ない羽目となり、工事費は2倍に膨らんだ。

オ―プンも1ヶ月以上遅れた挙句、二重の手形決際を強いられ、その後の資金繰りを大きく狂わせる事になった。
昭和42年(1967)初めのことである。
そん訳で、銀座ボナパルトのスタ―トは散々であった。
たちまち苦境に陥った。
私は日本橋店を石塚さんに任せて、銀座店を軌道に乗せる事に必死となった。
ピアノの弾き語りを入れるとともに、ナポレオンメイトの会というボトルキ―プの仕組みを作りメンバーを勧誘したり、大學同窓の如水会員へのダイレクトメ―ル作戦を展開するなど努力を重ねた。
次第にお客が増え、半年ぐらい経つと、連日満員になるようになった。
すると、家主の片桐さんは「池袋も貸そう」と云ってくれた。


「池袋ボナパルト」
池袋は、東京丸物の地元であり、私自身どうしても出店したい場所であったから、喜んで借りる事にした。これも手形払いで工事して、昭和43年(1968)春、池袋ボナパルトは開店した。
池袋にしては珍しく洒落た店で、パブラウンジ「ボナパルト」と称し、サラリ―マンが安心して飲んで歌えるお店にした。
東京丸物時代の友人を初め、西武百貨店、東武百貨店、三越などのデパ―トマン、講談社、小学館などの出版関係の方々も含めて常連客が増えていった。
日本橋店、銀座店のお客様もボナ廻りと称して、池袋に来店してくれた。
全店が営業的に順調に行くように見えた。
然し、問題があった。
どのお店もお客様がよく入って繁盛するのだが、法人客が多く売掛金が増えるのである。
取りはぐれはないのだが、回収が遅れる。
売上の五割ぐらいが掛売りになった。
開業3年間に三店舗の急速出店で、工事代金の手形払いが重なっているから、資金繰りに苦しみ続けることになった。
昭和46年(1971)夏、ついに不渡りを出して、倒産に追い込まれる。
いわゆる黒字倒産である。
致命傷となったのは、やりくりの余り街金融の高利の金に手を出した事である。
その返済に追われて正常な資金繰りが破壊されてしまったのである。
情けない事であったが、この倒産は私の経営に対する甘さが原因であった。
街金融の取立ては厳しかった。「店をすぐに明渡せ」というのだ。
固定客が付いて、営業的には成功しているお店を、むざむざと明け渡す訳にはいかない。
私はそれを断固断り、金融屋の取立て係と一諸に、ボナパルトの唯一の優良資産である、売掛金の回収に歩いた。
法人客の支払日は決まっていたが、その会社を直接訪問して事情を説明し、特別支払いにしてもらう。
それをそのまま右から左に、金融屋への支払いに当てるのである。
現金仕入れで、日本橋、銀座、池袋三店舗の、その日その日の営業を継続しながら、約一ヶ月掛けて一番厄介な街金融関係を、こうして解決した。
工事代金や買い掛け代金等の一般債務は、それから2年ほど掛けて、分割払いや、日本橋店、銀座店の営業権を売る事などで概ね整理する事が出来た。
ボナパルト時代を通じて、私は独立して経営する面白さとその厳しさとの両面を、身にしみて学ぶ事になった。
資金繰りの苦労を通じて、資本の原始的蓄積の不可欠性と、商売は現金主義で無ければならないと痛感した。
私は一敗地に塗れたが、倒産処理を通じて、「どんな困難にも決して逃げてはいけない。誠意を持って真正面から対応すれば、必ず乗り越えられる」ことを体験したのである。


かくして、池袋ボナパルトだけが残った。


―――やがて池袋ボナパルトは、当時お店を手伝ってくれていた三村春雄さんに譲ることになるが、現在も「池袋三越」の隣りで、三村マスタ―が立派に経営し続けており、今でも私は常連の一人である―――


私は38歳になっていた。
30人程いた従業員も、4人になり、私自らカウンタ―に入り、調理したり、接客したりした。
「もう一回勝負したい」と心中深く期していた。
どこかに就職しようと思えば、大学の先輩になどに頼んで拾ってもらうことも出来たと思うが。それでは一生肩身が狭いし、ありのままの自分を賭けてみる場所を探していた。
『もう一度一からやり直そう』と思っていた。


(以下次月号)

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