<コンビニ創業戦記> 第6回
・・・ロ―ソンのル―ツ「サンチェ―ン創業物語」・・・
「サンチエ―ンの創業」 <T・V・Bサンチエ―ン時代(その1)>
昭和51年(1976)8月ごろの事である。
私は42歳になっていた。
早速、CVS事業化プロジェクトを発足させた。
私をリ―ダ―に、メンバ―は針谷さん、赤城さん、黒田さん、瀬川さん、鈴木さん、高橋さんの7人の侍であった。
皆、30歳前後の野心に燃えた気鋭の若者達であつたが、私以外に、小売業の経験のある者はいなかった。
その頃、かの有名なロッキ―ド問題で、田中角栄元首相が逮捕されると言う前代未聞の大事件が起こり、世情は騒然としていたが、我々はそんなことにはお構い無しに、コンビニエンスストアの事業化の準備に没頭した。
チエ―ン名は、私のキ―ワ―ド「太陽」からとって、「サンチエ―ン」と銘名した。
地域社会の暮らしの太陽として、「地域で一番、親切で便利なお店」の輪を、全国に展開したいとの願いを、深く秘めていた。
企業活動は、人間の幸福追求、生活の維持向上を目指すために存在している。
常に、未知の分野に足を踏み入れ、大きな冒険に敢然と挑戦する勇気と決断、眠っている可能性、社会的ニ―ズを積極的に掘り起こして,その潜在需要に応える活動こそが、「企業の使命」である、と考えていた。
これこそ、T・V・B(トライヤル・ベンチャ―・ビジネス)の経営理念の根底にあるものであった。
昭和51年10月、(株)T・V・Bサンチエ―ンを設立した。
資本金は2000万円であった。
私はサンチエ―ンの経営指針を
1・流通革命の尖兵となる
2・地域社会の太陽となる
3・明るく屈琢の無い強い人材となる、と定めた。
この三指針を合言葉に、流通の新時代を切り開き、商人の道を求めながら、より明るく、より豊かで、暮らしよい社会創りに貢献したいと、高い志を立てたのである。
サンチエ―ンの経営目標は大きく
1・5000店チエ―ンとなる
2・上場企業となる
3・日本一チエ―ンとなる、とした。
我々の手にあったのは、この理念と目標、そして燃えるような情熱のみであった。
志は極めて高かったが、始めはコンビニの店作りのノウハウが全くない。
ともかくも、セブンイレブンのお店を、繰り返し、何度も見て回った。
プロジェクトメンバ―が交代で役割を決め、売場レイアウトを書き写し、商品を買い集め、カメラで隠し撮りをしながら、資料を集め、店作りや品揃えの叩き台を作成した。
時には、お店の人に怪しまれて、厳しく問い詰められたりもした。
今考えれば懐かしい思い出だが、全員が必死であった。
仕入先は、電話帳の産業別で調べて、一流どころを選び、私自身が飛び込みで交渉に出掛けた。
全くの手探りであった。店を出しながら、ノウハウを掴んで行くしかない。
それには、短期間に集中出店することだと考えた。
集中出店すると、資金、人材、店舗運営、商流、物流、情流など、チエ―ン経営の根幹に関わるあらゆる問題点が、一挙に集中して噴出してくる。
それら一つ一つに、その都度、必死に対応しながら、標準化し、規格化し、システム化する必要性を、嫌でも痛感させられることになった。
「走りながら考えよう」をモット―に、試行錯誤を重ねつつ、全員で知恵を出し合いながら、ガムシャラに、標準化、規格化を進め、システム化を図って行った。
各種の作業でも、合理化してロ―コスト化する智慧が、自然に湧いてくる。
新採用の社員の中から、意欲のある人材がどんどん育っていく。
最初は、そんな感じであった。
私は、「始めは小さな炎でも、やがては荒野を焼き尽くす」という、毛沢東の言葉をスロ―ガンに掲げた。
「鉄砲水の出店で、あらゆる障害を跳ね飛ばそう」と、日夜、社員を叱託激励した。
もし,一店舗出店してはそれを軌道に乗せ、それから二店舗目を出店する、という常識的なやり方をしていたら、恐らく今日の姿はなかったであろうと思う。
昭和51年11月26日、最初のお店を三店舗同時にオ―プンした。
山手線駒込駅前の駒込店、京成線町屋駅近くの町屋店、西武線富士見台駅前の富士見台店である。
キャバレ―ハワイの女子社員さん達が、お店の仕事を終えてから、深夜にお買い物が出来るように、との配慮も加えて、選んだ立地である。
共に、売場坪数約20坪の小型店で、実験店を兼ねていた。
(以下次月号)
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