第91話 月は東に日は西に

     

蕎人伝⑧与謝蕪村

 

 「蕪村居」という粋な名前の店がある。江戸ソバリエさんが開いた小岩の蕎麦屋である。いつかその店に行った帰り、総武線の駅から見る西の空がオレンジ色に輝いていたことがあった。

 「菜の花や 月は東に 日は西に」。

 この壮大で詩情豊かな句は、いわずと知れた与謝蕪村である。蕪村は俳人であったが、画家でもあった。

 古寺の 暮真白也 そばの華

 柿の葉の 遠くちり来ぬ そば畠

 山畑や けぶりのうへの そば畠

 そば刈りて 居るや我行 道のはた

 だから、「菜の花・・・」の句にしても、蕎麦の句にしてもまるで絵を観るようである。

 鬼すだく 戸隠のふもとの そばの花

 奉納 戸隠蕎麦切

 戸隠の句は想像力を借りている。私も鬼無里に立ったときは、蕪村の句が頭に浮かんだものだった。

 これだけ蕎麦の句を作っていれば、きっと蕪村も蕎麦が好きだったろうと思うが、とくに次の句は「新蕎麦が来た、来た」とはしゃいでる蕪村が見えるようである。

 しんそばや 根来の椀に 盛来

 そんな蕪村が描いた絵のなかでは、私は「夜色楼台」が好きである。これを見ていると、蕪村は画家というより写真家のように感じる。画家と写真家とどこが違うかといえば、「月は東に日は西に」もそうであるが、写真家には時間感覚があるように思える。「夜色楼台」の絵の中にはしんしんとした寒さのなかにどこかしら暖かさが伝わってくる。この寒さと暖かさの二極が時間を感じさせるのである。

  また蕪村といえば、池大雅との共同制作による「十便十宜図」(1771年、56歳)が有名である。まだ本物を観たことがないが、絵画集では何度も観た。この後世に残るような企画を仕掛けたのは名古屋の下郷学海(1742-90)という俳人であった。

 ここからの話は、蕪村を離れて学海のことになる。

 この下郷家というのは、東海道尾張鳴海宿で銘酒「玉の井」を醸造する「千代倉」を代々営んでいる家であったらしい。学海は俳諧を横井也有に、儒学を宮崎筠圃に学び、建部綾足や池大雅らとも交わった。著作に「詞草小苑」「伊良虞紀行」などがあり、また学海は無量寿寺や知立神社に、芭蕉連句碑を建立している。

 「かきつばた 我に発句のおもいあり」 芭蕉

 「麦穂なみよる 潤ひの里」 知足 

 芭蕉が1684年に「野ざらし紀行」を終えた翌年、木曽路を経て帰庵の途中、鳴海の俳人下郷知足の家に泊ったときの作といわれる。知足は、名古屋一円に蕉風俳諧を広めた芭蕉の信奉者であった。この知足の孫が学海である。
 

 そもそも下郷家のルーツというのは、平維盛にまで遡るという。維盛の側近の中に平六兵衛という者がおり、その妹八重も清盛の妻時子の侍女として働いていたが、維盛の子を産んだ。のち、平家が落ちたとき、六兵衛と八重とその子は故郷の下郷に帰った。成人した八重の子は下郷維忠(1183-1253)と名乗って一帯の当主となり、地域の発展のために大いに尽くした。そして1500年ごろ、この家系から鳴海下郷家などが派生した。鳴海の下郷家は種政という人が始祖である。酒造「千代倉屋」を本業とし、豪商となった。その子孫が知足、そして学海というわけである。

 ところが、この下郷家の関係というのは複雑で一回聞いただけではとても理解できない。とりあえず述べてみると、知足には長男蝶羽と四男亀世(蝶羽とは異母兄弟)がいた。この亀世が学海の実父である。亀世はその後、蝶羽の養子になり千代倉を継いだ。蝶羽の男に常和がいる。学海とは血縁の上では従兄弟であるが、亀世が常和を跡取養子に迎えたので学海の兄でもある。その後に常和は学海を養子にしたので父でもある。また常和の弟に蝶羅がいる・・・・・・、という具合である。何が何だか分からなくなってくるが、つまりは一族がお互い譲り合う様に自分の実子ではなく、兄弟親族の中から養子を決めて家業を継がせているのである。

 当事者でもないわれわれはこうした関係図はあまり気にせずに、一族が「下郷」というブランドを守っているのだと理解すればそれでいい。

 ただ、先祖、血筋、先人、暖簾、こうしたものを大切にしたい、これも日本の文化のひとつであったことを下郷家のルーツに接して痛感したために、クドクドと述べてみた次第である。

  さて、「十便十宜図」の話に戻ろう。池大雅は学海の絵の師匠であったが、学海と蕪村の縁はどういう糸で結ばれていたのであろうか?
 青年時代の蕪村は日本橋石町の夜半亭早野巴人に師事し俳諧を学んだ。現在の「室町砂場」という老舗の蕎麦屋からやや昭和通りの方へ行った辺りの銀行が建っている所が「夜半亭」であった。蕪村はそこに住み込んでいたから、そこが言わば「蕪村居」であった。今も近くの十思公園に「時の鐘」があるが、当時もあった。「夜半亭」とはその鐘の音を意識しての号である。

 石町の夜半亭跡

  が、それはさて措き蕪村はそのころ師の竹馬の友常盤潭北(1677-1744) と北関東を一緒に旅したことがある。この潭北という人は『今の月日』という句集を編んだが、その中に下郷学海の父亀世の句が載っている。そんなことから、亀世ら名古屋俳壇は潭北を通して蕪村との交流ができたものと思われる。

 (学海 亀世 潭北 蕪村)

 また、芭蕉の句碑を建立した学海は芭蕉への敬愛の念が深く、かつて芭蕉が伊良古を訪ねる途中に「千代倉」に滞在したことにちなみ、二柳ら友人と一緒に芭蕉が歩いた跡を巡って (『伊良虞紀行』)いるが、この二柳というのは蕪村の同門の几圭と親友であり、また同年に「夜半亭」において、蕪村は几董(1741-1789、几圭の子)、二柳らと歌仙を巻いているのである。

 (学海 二柳 几圭 蕪村)

 ちなみに、1737年に構えた夜半亭は一世早野巴人(1676-1742)の没後 ⇒ 二世は与謝蕪村(1716-84)が継ぎ ⇒ 三世は高井几菫(1741-89)が継承した。

 まだ他にも、蕪村と尾張俳壇は二重三重とつながっているようだが、そんなことからわれわれは名画「十便十宜図」の誕生を知るにつけ、江戸時代にはすでに自由な趣味人のネットワークがあったことに注視すべきであろう。

 

参考:ほしひかる筆「変人大雅と奇人簫白」(日本そば新聞「蕎麦夜噺」第28夜)、「夜半亭」跡(中央区日本橋室町4-5)、「蕪村居」(http://www.pdsys.jp/)、萩原朔太郎『与謝蕪村』(岩波文庫)、村松梢風「与謝蕪村」(『本朝画人伝』中公文庫)、高橋治『蕪村春秋』(朝日文庫)、高橋庄次『月に泣く蕪村』(春秋社)、内藤湖南『支那絵画史』(ちくま文庫)、津村信夫「紅葉狩伝説」(新学社『近代浪漫文庫』34)、

 〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕