第171話 十二月四日 大和郡山・奥平茶会

     

蕎麦膳 》七

 

 江戸時代、懐石料理の後段で蕎麦切を食したことは知られている。たとえば、茶人である松屋三代(久政、久好、久重)が記録した『松屋茶会記』(1533~1650)の、「久好茶会記」(1586~1626)には、大和郡山城の家老奥平金弥に招かれた茶会でそれが供されたことが記録されている。

 茶会に招かれたのは、奈良奉行中坊左近秀政、興福寺一条院坊官中沼左京、興福寺一条院坊官別所宮内卿(次兵衛)、辻七右衛門松屋久好の5人、時は元和8(1622)124のことであった。

 朝の茶会は四時、郡山城においてであった。そのときは城主松平下総守自身が給仕した。

 夕方は四時、郡山城の主席家老山田半右衛門殿宅での茶会が予定されていた。

 ところが、予定外であったが昼になると、5人は家老奥平金弥宅に招かれたのである。

 その記録は下のように記されている。

  一山長文字  軸ワキニ青地ノキヌタニ、梅・ホケ入、 尻フクラ
  染付茶碗 古黄瀬戸水指 メンツ 引切
  日野うどん 又蕎麦切  肴色々  菓子餅・栗・牛蒡  

 献立を見ていると、炭の匂い、お湯の沸く音、静かな茶筅の音が聞こえてくるかのようであるが、この場合、それよりも登場人物たちが面白い。ついては、ここで招いた男と招かれた男たちの素性をみてみよう。

  先ず、この『茶会記』の記録者松屋久好(?-1633)は、村田珠光の茶風を伝承する奈良派の茶人である。本業は奈良転害郷に住む塗師、東大寺八幡の禰宜でもあった。

 師の珠光という人は「藁屋に名馬繋ぎたるがよし」という茶道における名言を残している。これをどう解釈するかは難しいところであるが、「貧しい生活でも心中には名馬を秘めている」と訳している人もいる。そうであれば、松屋の茶風というのもそれとなくうかがえるところであろう。

 久好といえば、千利休、小堀遠州との付き合いも深く、また「徐煕筆の白鷺の絵」、「存星長盆」、「松屋肩衝」のいわゆる「松屋三名物」を所持していることでも有名であった。

 そのうちの「白鷺の絵」というのは、五代十国(南唐)時代の花鳥画家徐煕の筆で、足利義政 → 村田珠光 → 松屋と伝えられ、この絵を眺めるだけで茶道の極意が感得されるとさえいわれたという。

 「存星長盆」というのは唐の張成作といわれる逸品である。その技法は、漆塗りの面に色漆で文様を描き、文様の輪郭線に沿ってやや太く、文様の上は細く、刀で線彫りを施すものであるらしいが、もちろん現在の中国にも残されていない。わが国では江戸末期に高松藩の玉楮象谷がこの技法を模した象谷塗を開発し、香川漆器がその伝統を受け継いでいるとされている。

 「松屋肩衝」は、漢作の名物で、珠光の弟子松本周寶が所持していた。 

 余談だが、「松屋肩衝」は今では根津美術館が所蔵しているというので、行ってみた。村田珠光、松本周寶、松屋三代が手にした肩衝を見ることができるかと思うと、胸が高鳴る。だが、残念なことに、その日「松屋肩衝」は美術館に展示されていなかった。代わりに、ミュージアムショップへ行って、post cardを購入。

【松屋肩衝】

 そして再び展示室に入って、他の茶道具を拝見した。いずれも「松屋肩衝」に負けぬ名品ばかりである。おそらく、松屋の茶会でもこのような名品が使われていたのであろう。

 話を戻して、次の奈良奉行中坊左近秀政であるが、そもそも中坊氏というのは菅原道真の後裔が生き残って柳生一族となり、その一部が中坊氏を名乗っているのだという。菅原道真といい、柳生一族といい、何か話題の一族ばかりのところが不思議だが、ともあれ大和の乱世は南和の越智氏と北和の筒井氏の対立という構図のなかで、筒井氏はこの中坊氏に支えられながら大和をほぼ押さえていた。しかし1608年、中坊秀祐が駿府城の徳川家康に筒井定次の不行状を訴えたため、定次は改易に追い込まれた。寵臣である秀祐がこのような訴訟を行なった裏には家康との取引があったためといわれているが、秀祐は筒井氏改易後に幕臣として取り立てられ、奈良奉行に任じられている。そして秀祐の死後家督を継いでいたのが、嫡子秀政であったが、なかなか強かな一族である。

 次に、興福寺一乗院坊官中沼左京と同別所宮内卿の両名を述べる前に一乗院を説明しなければならない。 

 一乗院は、第6代門主覚信(関白藤原師実の子息)のころから、代々、摂家あるいは皇族が門主を務める門跡寺院の一つになり、今は尊覚法親王(後陽成天皇の第10皇子庶愛親王(1608-1661)が)門主であった。ちなみに先述の筒井氏は一乗院の衆徒の筆頭であった。

 中沼左京(1579~1655)は、初め近衛信尹に仕え、その推挙によって中沼家を継ぎ、一乗院の尊覚法親王の諸大夫となった。左京の妻は大名茶人として知られる小堀遠州の妻の妹であり、また弟は能書家で知られる石清水八幡宮の社僧松花堂昭乗(1582-1639) である。これらの縁から、左京は小堀遠州、あるいは金森宗和、片桐石州に一流茶人との交流も盛んであった。戦国の世に、これらの人々と付き合うには、付き合う方も腹の据わった人物でなければならなかったことを思うと、中沼左京も強かな男であったにちがいない。

  なお、坊官別所宮内卿については不明であるが、奈良市に別所町があるからそれと関わりのある人物であろうか。また辻七右衛門についても詳しい素性は不明であるが、いずれも久好らの茶人仲間であったことにまちがいはない。

  さて、次にこれら5人を迎えた方である。先ず朝の茶会を設けた大和郡山藩主松平忠明であるが、彼は1583年に徳川氏の重臣の奥平信昌の4男として生まれた。母は徳川家康の娘亀姫であるから家康の外孫にあたる。そんなところから家康の養子となって松平姓を許され、三河作手藩主、伊勢亀山藩主に就いて、大坂冬の陣では美濃の諸大名を率いる河内口方面の大将となった。そして豊臣氏との間で休戦協定が結ばれると、家康の命令で大坂城外堀・内堀の埋め立て奉行を担当した。さらに1615年の夏の陣では、道明寺の戦い、誉田の戦いに加わり、その戦功により摂津大坂藩10万石の藩主となって、大坂の戦災復興にあたった。そしてその復興の手腕を高く評価され、1619年に大和郡山藩12万石へ加増移封されたのである。今流にいえば、徳川政府のエース松平忠明が奈良の県知事、すなわち大和郡山城主に任命されたのには訳があった。

 というのも、奈良は鎌倉時代から長らく興福寺が治めていたが、そんな興福寺一乗院の荘園の今井に一向宗の道場がたてられた。今井庄は本願寺を背景とした環濠集落にまで発展し、興福寺からの弾圧を免れるという特殊な地域となった。その時期は自治都市として「海の堺」「陸の今井」と並び称されて栄えたという履歴を有するユニークな都市だったのである。また豊臣政権下でも大物(秀吉の弟)の大納言秀長が奈良県知事に就いたが、この大納言は茶の世界で歴史に残る「北野の森の大茶会」を主催した人物だ。その際には松屋他の奈良派の茶人たちが秀長を支えていたのである。

 となると、招いた者、招かれた客、いずれも一筋縄ではいかぬ男たちばかりであった。

 そんな彼らが口にした茶や蕎麦切は、さぞや深みのある味わいだったのだろう。

参考:「松屋会記」(『茶道古典全集』第九巻-淡交新社)、桑田忠親『本朝茶人伝』(中公文庫)、井口海仙『茶道名言集』(講談社学術文庫)、「松屋肩衝」(根津美術館)、

 〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる