第628話 赤い死の仮面

      2020/05/27  

☆赤い死の仮面
カミュの『ペスト』、エドガー・アラン・ポーの『赤い死の仮面』など疫病の恐怖を描いた小説は幾つかある。
『ペスト』の主人公は医師だが、『赤い死の仮面』は王様(権力者)である。
その王様は疫病蔓延で市民がバタバタ死んでいる最中、疫病が入ってこぬようにと完璧に城門を閉鎖して、城内で仮面舞踏会を催して放蕩三昧。だが完璧と思ったのは医学に無知な素人ゆえだった。恐ろしいウィルスは何なく城内に侵入し、王様も死ぬ・・・。そんな小説だ。

☆新型コロナウイルス
話は現実になる。
過日、このような非常事態のときに首相夫人が花見をしていたと野党に責められていた。対して首相は「あれは花見ではない。レストランで食事をしていただけだ。レストランに行ってはいけないのか!」と感情的になって反論し、逃げていた。
そのニュースをテレビで見たとき、ポーが描く王様のようだとも思った。なぜなら、『赤い死の仮面』は1832年のコレラ大流行の際の、まさに「このようなときに」開かれたフランスの舞踏会が材となって執筆されたというからだ。指導者らしからぬ行動をポーは責めたのである。
また、感染者数が増えたきっかけをつくったのは首相であるという声がある。なぜなら、小中学校再開まではよかったが、その発表を社会心理学の専門家などに相談することもなく連休の前に発した。そのためみんなは解放感をもち、連休にどっと外出したというのである。
報道では、それを国民一人ひとりの自覚がないせいと追従していたが、上の二つの例の底辺に流れるのは「オレたちはまちがったことをするはずがない」という驕りだ。そういう頭の悪い人にかぎって「私の考えで決断した」とかの軽率な言葉を発しているが、アナタの考えによって死んだ人間は、どう生き返らせるのですかと呆れてしまう。
カミュもポーも、疫病小説の中に必ず権力者を登場させているのは、権力者というのは人間社会内のことであって、ウイルスから見ればお構いなしで襲いますということだろうか、それともキミたちはこういうときには必要のない人種だと言っているのだろうか。
だから、先の第625話でも述べたように防疫を政治家に任せるのは危険である。なぜなら彼らは医学やウイルスに対して素人だからだ。それに多々言われているように、国家つまり政治家による危機管理は民主主義と相いれない。
この度の新型コロナウイルスでも、アメリカ大統領は、日用品の店と同様に銃販売店の開店も認めた。政治判断によるというが、その政治判断というのは防疫より選挙対策優先だ。またフィリピン大統領は、新型コロナウイルス対策への抗議活動でトラブルが起きれば警察や軍は射殺すると警告した。極端な例かもしれないが、危機管理と権力は裏表である。
それに、諮問委員会、専門家会議などという名の専門家の集まりはあっても、権力者は権限を渡さない。あくまでこちらの都合のいい参考意見を具申してもらえばいいという制度であり、ひどいときにはどうぞ議論してください。ただし結果は採用しませんというシステムである。なぜなら権力者が権力を渡せば権力者でなくなるからである。
思想家のミッシェル・フーコーは「ノーム(規範)⇒ノーマル(普通)」の移行の怖さを説いている。つまり、最初は危機における「規範」だからやむを得ないと市民も半信状態で受け入れるが、それに慣れると今度はそれが「普通」だと思うようになってしまう。これが「規律権力」の狙いである。
こうした催眠術を避けることは簡単である。625話でも言ったように専門家に権限を与えて対処すればいい。防疫、つまりウィルスや病は、素人は手が出せない。そこが防災と大きく異なる点である。もちろん専門家だつて限界はあるが、それを政治・行政が支えればいい。

☆『日本国憲法』第25条-2項
先の敗戦で日本は、防衛はシビリアン・コントロールでいくべきと学んだ。
だったら、防疫はプロフェッショナル・コントロールするように考えを変えればいい。
マスコミもここを突かなければならないというのに、何をやってるのだろうと落胆する。毎日毎日無駄な雑談ばかりでもったいない。たとえば、誰かが「医療崩壊」と言い出すと、みんながそれについて無益な井戸端会議を始める。
今われわれに医療崩壊の実態を知らされても困る。なぜならそれが国の責任範囲であることは、この度のヨーロッパのD国とI国を医療体制を比較して見れば分かると思う。小さい川に大量の水(感染者)をどっと流し込めば堤は崩壊する。それを避けるには川を大きくしていなければならない。川とは、もちろん医療体制・建物・人材・機器・薬剤などである。
しかるに、病院のベットは老健施設へと変わっている。薬剤においては厚生省のジェネリック薬の使用方針のため薬剤の開発力が低下した。医療スタッフは外国人頼り。いわば川幅が国によって狭くされたのである
『日本国憲法』第25条-2項では「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」といっている。もちろん実行の際には裁量権がある。とはいえ、医療体制・建物・人材・機器・薬剤に投資せず川を小さくしているならば、向上及び増進に努めていない国は憲法違反に触れることになる。

☆首相の緊急事態宣言記者会見
先日行われたその模様はいかにも日本らしい光景だった。
・首相の無意味な話がダラダラと長く続いた。
・そのためせっかく臨席した医師は一言しか話す機会がなかった
・ジャーナリストの質問がさえなかった。
・江川紹子さんの質問は、民主主義と危機管理の点を突いていたというのに、他のマスコミはそのことを取り上げなかった。
・イタリアのジャーナリストから皮肉っぽい質問があった。
「日本は天国ですね」と言ってから、「この策に失敗したら責任をとりますか?」と訊いた。
首相は答えた。「法に則ってやっていますから、責任はとりません。」
日本はそういう国だ。

☆Better Living as Human
ここのところ、自然や気候変動やウィルスによって人間の文明社会が攻撃を受けている。
当然、われわれ趣味人の集まりも人間社会の一員である。
であるのに、われわれ趣味人チームというのは営利団体のような積極的社会関与はできないことが多い。だから自分たちのために最小必要な担当だけ用意する。たとえば会計担当なんかそうだろう。それに少し前からメール・HP・個人情報管理者や、そして東日本大震災からは防災担当者もいわゆる「最小役割」の一つになってきた。
となると、これからはあらたな「最小役割」を積極的にとりいれてくるだろう。それが防疫・衛生に関心や知識をもつ人材の用意である。
人間としてよりよく生きていくために・・・。

(未完)

〔文 ☆ 江戸ソバリエ協会 理事長 ほしひかる