【1月号】  伝統野菜・三河島菜は江戸では絶滅したが、東北仙台の地で食文化を育んでいた。

      執筆者:auc_shonin

徳川の時代1635年に、参勤交代の制度が確立され、大名たちは隔年で江戸住まいを強いられ、大名の妻達は人質のように江戸を離れることはできなかった。

この時代、不足する生鮮野菜を補うために、大名たちは国許から野菜のタネを江戸屋敷に持ち込み、百姓も連れて来て栽培をさせていた。

大名だけではない、富士講や成田詣り、遠くは、お伊勢詣りなどの道すがら、野菜畑ばかりか、水田、ムギ畑など、珍しいものがあれば。タネをもらってくることが盛んに行われていた。

江戸後期になると中山道のいわゆるタネ屋街道では、タネ屋さんが集まり、練馬大根のタネや三河島菜のタネが販売されていた。

練馬ダイコンの莢

当時、参勤交代で国に帰るときの土産になった。また、江戸見物の江戸土産でもあった。

一粒万倍。軽くて持ち運びし易いタネは、領主たちにとっては農業振興に繋がり、江戸で品種改良された話題の野菜は競って、地方に持ち帰られた。

練馬大根のタネは、当時の産別貼によると、東北、関東、中部、中国に伝えられ、山形の庄内では干し大根として、現在特産物となっている。

また、三河島菜もしかりで、伊達藩の足軽が参勤交代の折に、タネを持ち帰って蒔くと、今まで見たこともない大きな葉であったことから、芭蕉の葉のようだと、芭蕉菜の名が付けられた。

仙台では芭蕉を栽培するには北過ぎるから、江戸住まいの経験ある者が、江戸で見たことのある芭蕉の名を付けたのだろう。

今年、小平の生産者・宮寺光政氏に依頼して、仙台芭蕉菜を栽培してもらったら、元三河島菜の仙台芭蕉菜はお江戸に戻ってホッとしたのか、無農薬で立派に生育した。

飲食店の方々にも見てもらったり食べてもらったりして、使える、欲しい、と云うことから「里帰りした三河島菜」の名で、栽培を継続することを決定した。

この野菜、何処からきたのか、三河島菜は、その後、江戸から仙台にわたり、そして、100年の歴史を経て、再びお江戸・東京で栽培された。

里帰りした三河島菜

こんな話は全国に沢山ある。

加賀(石川県)の住人が、肥後(熊本県)の水前寺菜を、江戸時代に金沢に持ってきて栽培したという歴史があり、葉の裏が金時(キントキ)豆に似た赤紫色をしていたから金時草と書いて、キンジソウと名付けられた物語が付いている。

昔は、娘が嫁に行くときは、この野菜は美味いからと、娘に持たせたと云う話は珍しくなかった。

例えば、新潟「長岡巾着ナス」は、明治14年に南蒲原の田上町から長岡中島地区の小川家に嫁に来たおばあちゃんが実家から持ってきたとか、在来作物の宝庫、山形・庄内にも、おばあちゃんが嫁に来た時持ってきた等の話はたくさん伝わっている。

今年は、三河島菜の故郷の荒川区のかつての三河島や尾久地域にある、峡田小、第三日暮里小、尾久宮前小、尾久西小等で、栽培を復活させる予定だが、このような話も子どもたちに伝えていきたい。

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