第974話 武蔵野うどん 回り
作家で江戸ソバリエの碧野圭さんが、「菜の花食堂のささやかな事件簿シリーズ」7冊目に「蕎麦と思いやり」を上梓されました。
内容は、登場人物たちが《深大寺蕎麦》と《武蔵野うどん》の味比べのようなことを企画し、その行方は?というところです。
ただ、この対決をより理解するためには、《深大寺蕎麦》とは?《武蔵野うどん》とは? について、私自身が分かっていた方がよいかなと思いました。
それで、《深大寺蕎麦》の方は、深大寺そば学院との長いお付き合いから、あるていど知っているつもりですが、一方の《武蔵野うどん》はあまり分かっていません。前に、国分寺に住んでおられるジャーナリストで、友人のOtさんに「武蔵野に来たら《うどん》ですよ」とおっしゃって、「甚五郎」という《武蔵野うどん》の店に連れて行ってもらったことがあるくらいです。そこで、もう一度《武蔵野うどん》を食べてみようと思い、またOtさんにお願いしましたら、了解ということで、JR武蔵小金井駅で待ち合わせ、VWに乗せてもらって「小平うどん」へ連れて行ってもらいました。車はサンルーフ、5月の風が心地よい日でした。
開店は11時、一番乗りでしたが、すぐたくさんのお客さんが見えて満席になりました。メニューの一番先に記してある《肉汁うどん》が〝ウリ=一番人気〟だろうということで、注文します。運ばれてきた《武蔵野うどん》は、太さ8㎜ほど、噛めば硬い。そして豚肉汁。おそらく全国のうどんの中でもっとも硬くて、もっとも太いと思います。ですから、手が疲れてきます。なのに、なぜか記憶に残り、忘れられないうどんの食味がするのです。それは前回の「甚五郎」の食後感と同じでした。一般的には、硬さは塩分より、加水率の問題といわれていますが、それが手打ちか、機械麺かで、全国のうどんはまちまちなので、一概には言えないとこがあるので、硬さの理由は今日食べただけでは分かりませんでした。なお、当店は機械打ち麺だそうです。
さて、食べ終わって、現在人気の「柳久保小麦」の里に行ってみようということで、東久留米の柳窪へ足を向けました。
小平霊園内を通って、黒目川沿いに竹林や欅の大木が茂る、まるで武蔵野の原風景のような雰囲気のなかを歩いていきますと、柳窪天神社と長福寺がありました。境内には、「柳久保小麦」について説明板が建てられています。
1851年、奥住又右衛門(東久留米市柳窪)が旅行先から持ち帰った小麦が《うどん》に美味しく、「柳久保小麦」とよばれて人気になったのですが、昭和17年にいったん姿が消えたところ、最近になって復活されたのです。また、もともと当地は来梅の荘の里、あるいは流れる川は来梅川とよばれていたことが記されていました。それが東久留米市、黒目川となったようです。

次に連れて行ってもらった所が、「小平ふるさと村」です。
目を奪われたのは、小川村(小平市小川町)が開発されたころ(明暦年間:1655-57)の家屋です。大きな藁葺屋根、部屋と土間だけのまるで弥生時代の住居のような単純な造りですが、江戸開府が1603年ですから、復元家屋とはいえ、スゴイ物です。江戸時代というのは、私たちにとって〝近代〟の始まりだったといわれていますが、ここに移築されている江戸初期と後期の住居の変化から見てもそれが伺えます。
敷地内には、水車が回っています。また他の明治時代に建てられた古民家には見本の小麦、石臼、また水瓶、流し台、竈がありました。そして小平では茄子、大根ととも食べていたため《糧うどん》と言っていたと説明がありました。そうしますと、どうぜんながら《肉汁うどん》は現代のものということがいえるでしょう。

Otさんにはほぼ半日お付き合いいただきましたが、その最後にこうした古民家に佇みますと、《小平糧うどん》の手打ちや食事風景が想像できるようです。これが「武蔵野うどん 回り」の成果でしょう。
Otさん、ありがとうございました。
江戸ソバリエ協会 ほし☆ひかる