第104話 「蕎花秋仆野田風」

     

 

蕎人伝11 廣瀬旭莊

 

 江戸末期の漢詩人・廣瀬旭莊に「阿部野」という漢詩がある。

   阿部野 

 興亡千古泣英雄
 虎鬪龍爭夢已空
 欲問南朝忠義墓
 蕎花秋仆野田風

 ( 興亡 千古 英雄を 泣かしめ、虎鬪龍爭夢 已に空し。問はんと欲す 南朝 忠義の墓、蕎花 秋に仆る 野田の風。)

  詩の題である「阿部野」は、『神皇正統記』で名高い北畑親房の長男であり、足利尊氏を九州へ追った猛将として有名な北畠顕家が亡くなった所と伝えられる。したがって、「南朝忠義の墓」とは北畠顕家の墓ということになる。

 
 
 
 

 訳すれば、「歴史の興亡のなかで、英雄も涙を流したが、天下制覇の死闘もすでに空しいものとなった。南朝の忠臣・北畠顕家の墓所を訪ねようとするのだが、今は秋、蕎麦の花が畑を吹き抜ける風に倒されているのが見える」という意味だろう。

 一般人なら、廣瀬旭莊という人は、そんなにまでも北畠顕家を尊敬していたのだろうか、とお思いになるだろう。しかし、蕎麦好きは、こんな漢詩を残した廣瀬旭莊は、蕎麦が好きだったのだろうか? あるいは阿部野の畑に蕎麦の花が咲いていたのだろうか? と勝手なことを考えてしまう。

 はたして、どうなのか?  それには、廣瀬旭莊という人を見てみることにしよう。 

  廣瀬旭莊(1807-63)は豊後国日田の人である。兄廣瀨淡窓は懐の深い人物で、25歳年下の弟旭荘の才能を花開かせるため、末弟を自由に行動させたと伝えられているが、何かを犠牲にしてでも優秀な子や弟を育成しようとするのは、昔の父兄のよき姿である。だが、弟旭荘は兄の期待に応えたのだろうか?  

 その兄淡窓は、旭莊23、4歳の時に没したため兄の家塾「咸宜園」を継いだが、代官の教育干渉を嫌って、郷里を捨てて堺に出た。1836年30歳のときだったらしい。 

 兄が惚れこむほど優秀で、読書家の弟ではあったが、一方では気性激しく、求めるものも厳しかった。しかしながら現実は病弱な彼の思うようにはいかなかった。そこで彼は、瘤籟玉を破裂させる。犠牲になったのは妻だった。そのため彼は4度も5度も離婚し、そしてそんな自分を泣いて責めたという。どうやら兄とはえらく違う人物のようであった。そんな旭荘に追い打ちをかけるように都の風は厳しく、貧困との闘いの連続だった。一時は、江戸にも出たりしたが、また大坂に戻った。そんななか旭莊はいつも唐詩を愛読し続けた。旭莊は唐詩に傾倒するあまり、大坂に出たとき有金すべてを使って『全唐詩』全60巻を買い求めていた。「借金してでも手に入れたい」という熱中人の心情である。それはよくわかる。他に袁枚の詩も好きだったという。袁枚は、清国の地方役人で詩人でもあったが、『隨園食単』を著した食通としても知られている。

 ここでわれわれが採り上げるべきは『全唐詩』である。『全唐詩』は清国4代皇帝康熙帝が彭定求(1645-1719)らに編纂を命じた唐詩のすべてを収載した奉勅撰漢詩集であるが、それには蕎麦通たちが憧れている白居易(白楽天772-846)の詩「村夜」が載っている。

   霜草蒼蒼蟲切切
 村南村北行人絶
 獨出門前望野田
 月明蕎麥花如雪 

  唐詩に傾倒する旭莊が「阿倍野」で「野田」を持ち出しているのは、まちがいなく「村夜」を本歌取りとしているということであろう。旭莊の漢詩は、遠く清国まで聞こえ、兪曲園という儒学者が絶賛した記録があるという。それほどまでの男ではあったが、なぜか幕末維新の大風は広瀬旭莊の傍を通り過ぎるだけだった。

  「虎鬪龍爭、夢すでに空し。今は野田を吹き抜ける風が蕎花を倒しているだけ。しかし、それでいいじゃないか」と漢詩人・廣瀬旭莊は、わが身を蕎花に託し、静かな涙を流しているのではないだろうか!

参考:ほしひかる「蕎人伝」第102999188878270656462話、「咸宜園」跡(日田市)、旭莊の妻の墓(東京・小石川・傳通院)、白居易「村夜」、袁枚『隨園食単』(岩波文庫)、

〔エツセイスト 、江戸ソバリエ認定委員長☆ほしひかる〕