第283話 薫育の学校

     

卒業記念の蕎麦猪口

☆深大寺そばの学校の卒業式
和紙の白覆面に半袈裟かけて、自分で打ったお蕎麦を三方にのせ、恭しくもそば守観音様までお練りして、読経の中で奉献する。
この後は本堂へと向かい、再び本尊様へ奉献し、声明の流れる中で卒業証書を頂戴する。
これが「深大寺そばの学校」の卒業式である。ご覧いただければ分かると思うが、なかなか厳かな雰囲気である。
この学校の入学式は6月、卒業式が3月だから10ケ月の間、生徒さんたちは蕎麦栽培、蕎麦打ち、深大寺蕎麦の歴史を学ぶことになっている。
1年は12ケ月だが、実はこの10ケ月という少し足りないところに意味がある。学校という所は全てを教えられものではない。足りないところは自分で学ぶ。つまり卒業してからが本当の学習のスタートだということらしい。

懇親会の席で、皆さまとお話していると、こんな話があった。
最初「蕎麦の学校って聞いたとき、蕎麦打ちを教えもらえると思って申し込んだが、入学してみたらとんでもない、蕎麦打ちだけではなかった。本当の学校だった」という方が数名おられた。
この「蕎麦=蕎麦打ち」という図式で認識している方はあんがい多い。
江戸ソバリエ協会にもこんな電話がよくかかってくる。「来月、外国からお客さんが見えるから、手作りで、ヘルシーなお蕎麦を食べさせたい。だから打ち方を教えてほしい」と。一カ月弱の期間では、特訓でもしなければ・・・なんて思っていると、続けて「私は本物志向、食材は添加物のはいっていない物、できるだけオーガニック、蕎麦も十割しか食べない」と言われたときには絶句した。江戸蕎麦の本流である《二八蕎麦》を何か混ぜ物でも入っているかのように間違って理解している人とか、あるいは田舎や山奥の蕎麦屋が本物だ、みたいに勘違いしている人は多いものだ。
しかしながら、ここの生徒さんたちは、栽培や水車での製粉の過程では食べ物のありがたさ〟を、また同じく蕎麦打という行為の中では料理を作っていく楽しさ〟を、トータル的には「蕎麦の奥深さ知ることによって、人生の楽しみを教えてもらった」という方もいらっしゃったから、間違った雑学は払拭されたことと思う。

☆長谷川雪旦絵「深大寺蕎麦」を読み解く
私の授業はといえば、深大寺蕎麦の歴史の講義と、2日目は『江戸名所図会』の中の「深大寺蕎麦」について読み解いたことを、班別に発表してもらうことになっている。各班ともに感心すめほどに細部まで検討されていた。
特に蕎麦については「食べている蕎麦は《御前蕎麦》だろう」と大胆な推理された班もあるが、「イヤ、これは《ぶっかけ蕎麦》だ」とされた班もあった。
私が見る限り、絵には蕎麦猪口が描かれていないから、《ぶっかけ蕎麦》というのは案外的を射ているのかもしれない。ただ、当初は《ぶっかけ蕎麦》は下品だとされていたというから、お寺ではどうかなとの疑問がないでもない。要は、《ぶっかけ蕎麦》そのものではなく、ぶっかけ蕎麦のように《汁を和えた蕎麦》だったのかもしれない。
こうやって歴史時間を江戸後期まで戻してみると、「寺が近辺住民の媒体であった」ことや、絵の画面が「檀家さんとの交流」ではなかったかなど〝地域〟における、当時の寺院の存在価値まで追求された班もあった。
それゆえに、江戸後期に描かれた『江戸名所図会』の中の「深大寺蕎麦」を読み解くことによって、「歴史を体感できる」と述べた班もいらっしゃったが、まさにそれが私の願っていたことであった。
私がこの企画を思いついたのは、幸田露伴の『観画談』からであったが、それは主人公が掛軸の中に入っていくという不思議な話だった。
ところが、つい先日テレビで『魔法にかけられて』というディズニー映画が放映されていた。これは絵本の世界と現実を行き来するという楽しい話だった。
二作品とも、その世界へ行ってみなければ、真の理解はできないヨ、ということだった。

☆薫育の学校
卒業式の日、隣の席にいらっしゃったご住職の張堂師が、こんなことをおっしゃった。
今「教育」と言っているそれは明治以降の言葉であって、日本では元々「薫育」といっていた。おそらく仏教用語の「薫習」からきているのだろう、と。
たしかに、「教育」とは「人を教えて知識を開くこと」であろうから、何か知識を売物にしているような感がある。
一方の「薫育」という言葉は聞いたことがあったが、忘れていた。もうひとつの「薫習」という言葉は知らなかった。
帰宅してから辞書を開くと、「薫習」=「ものに香りが移り沁むように善悪などの行為・思想がその余勢を心に残し留めること」とあった。いい言葉だ。
そういわれてみると、今は言う人もいなくなったが、昔はよく「私は○○先生の薫陶を・・・」なんていう挨拶があったことを思い出した。要するに「感化を受けて、今日私があるのも先生のお蔭だ」ということだ。
ご住職の話をうかがって、人間性が薫るような人間になりたいものだと思ったものの、私には程遠い話だろうと頭を掻くしかないようである ―。

参考:幸田露伴『観画談』(岩波文庫)、ケヴィン・リマ監督『魔法にかけられて』(ディズニー)、

〔深大寺そばの学校講師 ☆ ほしひかる