第289話 The nearness of you
そば資料館・研究センターの氏原睦子さんとの共同企画「Jazz & Soba」の第2回目(平成27年4月30日)を駒込の「小松庵」で開催した。
第1回目(平成26年4月27日)は巣鴨の「菊谷」での藤井政美sax・山本優一郎bass・山口圭一drumsのライブだった。
あれから1年、今回は会場である「小松庵」さんにピアノがあることから、藤井政美sax・鳥岡香里piano・因幡由紀vocalとした。
小松庵の社長は音楽好きである。そのためお店の一室にピアノも、レコード・ステレオも設置してある。アンプはフランコ・セルブリン。音質がいい。私も気に入ったから、愚作『ほの甘い小説』の中に採り入れた。
それに社長の意向は、演奏者と聞く人の垣根を作りたくないということから、食事もジャズメンと一緒にしようということになった。ジャズライブにはピッタリの「一期一会」の精神だから大賛成だ。
今回のような「氏原睦子+藤井政美+ほしひかる」のコラボは2回目であるが、実は平成26年6月に「小松庵+ほし」としての音楽会を、前に開いたことがある。
その日の主役は田下さんというピアニストだった。彼は何曲か目に、ある曲を弾き始めた。甘く切ないメロディだったけど、ややオリエンタル風なところもあった。初めて耳にする曲だったので尋ねてみると、スヴィリドフの『吹雪』の中の「ロマンス」ということだった。
今夜もそんな甘く切ない曲が始まった。カッチーニの「アヴェ・マリア」のジャズアレンジである。
この曲はキリスト教徒にとっては祝福の歌であるから、たくさんの西洋音楽の作曲家が手掛けている。現に、イタリアのボッティチェリが描くマリア像の額には、「AVE MARIA GRATIA PLENA」(おめでとう、マリア、恵みに満ちた方)とサインをしてあるぐらいだ。
ところが、カッチーニ、いや正確にいえばカッチーニの作曲とされているこの曲は甘くて切ない。受胎告知の祝福というより、ラブロマンスのテーマ曲のようだ。
先述の『ほの甘い小説』はショパンのピアノ曲集を聴いたとき、この曲に合わせて展開するような小説を書きたいと思って書き始めたものだった。
このカッシーニの「アヴェ・マリア」もそういう気持をもたせるような旋律だった。しかし、その物語はおそらく映画『ある愛の詩』的なものになるだろうとも思った。なぜなら「切ない」ということが「限りある命」ということに結びつくだろうから。となると、あの名作を越えるような小説は無理だナと、書けもしないくせに一人前に苦笑いをしながら聞き惚れていた。
ところで、今日のジャズ会のタイトルは「あなたのそばに」としていた。
原題は「The nearness of you」、Ned WASHINTONとHoagy CARMICHAELの曲だ。N・ワシントンは「ローハイド」や「真昼の決闘」、H・カーマイケルは「スターダスト」「わが心のジョージア」なんていう曲を作っているが、われわれはその題名だけで何かピンとくるものがある。カーマイケルはソングライターだが、遊び心のある人みたいである。当時のテレビドラマ「ララミー牧場」にレギュラー出演したり、来日したときにホテルのテレビで、幼い少女 ― 彼にはそう見えたらしいが ― ザ・ピーナッツが、自分の歌「スターダスト」を健気に歌っているのを見て、テレビ局を訪ねたりしたらしい。しかし、こんな話は今の人には通じないだろう。それぐらいだから、私もすっかりこの曲のことを忘れていた。
ところが、小松庵のあの部屋で、生の、藤井政美sax・鳥岡香里piano・因幡由紀vocalの「The nearness of you」を聴いたとき、地味だけど、いい曲だと思った。
It's not the pale moon that excites me
That thrills and delights me
Oh no, it's just the nearness of you...
翌日、この余韻を楽しもうと思って、ユーチューブやCDで「The nearness of you」を聞いてみた。古典的ジャズだから、数えきれないほどたくさんのシンガーが歌っている。しかしながら、どうもいまひとつ物足りない。あえていえば、音楽ではなく、情報のように聞こえてしまう。
あの部屋で聴いた、生の因幡さんの歌と藤井さん・鳥岡さんの演奏と、座って操作しながら聞くデジタル音楽との違い、もっといえば「本物」と「コピー」の差を感じた。
そういえば、小松社長とピアニストの田下さんと音楽評論家の伊原さんと私とで、音楽談義を交わしたことがあった。そのときはいろんな話になったが、「人間は、ロジックに頼らず直接本質へ迫ることのできるような直感力が大切だ」みたいな話で盛り上がった。
その直観力は本物の温もりを感じることから得られると思う。
「The nearness of you」でも「君の温もりを感じていたい」と歌っているように、音楽も、恋人も、料理も温もりだ。
何といっても「あなたのそば」だ。
だから、ライブが終了して、氏原さんと「この曲は、これからもわれわれのテーマ曲にしようか」なんて話をしたものだった。
参考:第246話 「Black Coffee」、第245話「You 'd be so nice to come home to」、第237話 ジャズが日本を救う♪ 「ボッティチェリとルネサンス」(Bunkamura ザ・ミュージアム)、アーサーヒラー監督『ある愛の詩』、小松庵冊子『尊敬する仲間たち』
〔エッセイスト ☆ ほしひかる〕