第76話 江戸蕎麦めぐり①

     

砂 場 伝 説

  老舗の蕎麦屋「砂場」さんには、ずいぶんお世話になっている。とくに「巴町砂場」さんには江戸ソバリエのシンポジウムにご登板いたたき、また「虎ノ門砂場」さんは江戸ソバリエ・ルシックの「粋な食べ方コンテスト」の試験場として2階席を提供してもらったり、サンフランシスコで蕎麦を打ちに行くために結成されたkanrinmaruチームのために、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の、いわゆる「三舟の書」を特別に見せていただいたりした。もちろん、その間にいろいろと「砂場」の歴史を聞かせていただいたが、こんな贅沢なことはないと思う。蕎麦好きにとっては正に至福の時である。

 

☆砂置き場伝説

 その「砂場」の歴史は、秀吉の大坂城築城のときから始まるという!

 それは1583年、浪速の町に多量の資材を蓄積する場が設けられたときだった。巨石類は長堀、木材類は西長堀、砂や砂利類は新町が置場となり、翌年になると新町一帯は築城の職人たちを目当てにした食い物屋が多数開業した。その中の「和泉屋」と「津国屋」という麺類屋は人気を呼んでいたらしい。和泉屋は和泉国熊取庄五門村出身の中氏、津国屋は和泉国東畑村出身の吉田氏だった。
 

 Q:「食い物屋が多数開業した。その中に麺類屋もあった」ということは、外食屋が大坂城築城のころに存在していたということになるが、実態はどうだろうか?

 一般的には、日本で最初の外食屋(レストラン)「奈良茶」が浅草金龍山待乳山門前にできたのは1657年とされている。この説にしたがえば、それ以前の日本にはレストランは存在しないということになる。

 だとしたら、大坂城築城のころの外食屋とはどういう形態を指すのだろうか? 

 当然、大坂城築城の職人たちも飯は食べるであろう。だが、たいがいは工事を監督する各藩が賄っていたはずである。それでも賄いきれないものが多々あったろう。だから、それを補って商う者も出てきたことは想像できる。それらを含めて、作業中の職人たちはそのまま野外で食べていたことも否定できない。となると、外食屋のあり方としては炊き出し方式しかない。各藩の賄いも、民間の食い物屋も、麺類屋も野外で炊き出し、それを職人たちその場で貪るように食っている姿が浮かんでくる。これが砂場伝説の実態であろう。

 

☆大坂屋伝説

 現在の「砂場」は、その坂城築城の砂置き場で営んでいた和泉屋の血筋だという!

 だから、今でも「大坂屋 砂場」を屋号にしている。つまり、和泉国五門村出身の中氏は大坂に出て来たとき故郷の「和泉」を屋号としたが、江戸に出て来たときは第二の故郷「大坂」を屋号にしたわけだ。

 

 Q:そもそも、和泉国の中氏とはいったい何者であろうか? 

 『姓氏辞典』や『地名辞典』によると、中氏は熊取庄五門村の古くからの土豪であったらしい。その中で、ある一派は商業に進出したり、またある一派は紀州根来寺成真院の氏人となって関係者からは同院の院主になったりしている者もいる。そして関ヶ原、大坂の役後、熊取の郷士中氏の某が根来氏と改名して幕臣になったり、中氏の小佐次という者が浜松の家康のもとへ行って、召し抱えられた例もある。

 これが中氏一族であり、どちらかといえば徳川方だったようである。

 こんな経緯から、以下の砂場の店主たちの発言にも納得がいくところがある。

 ①   「巴町砂場」の亡き萩原長昭さん=「和泉屋の二代目か、三代目が徳川家ゆかりの人物を頼って浪花から江戸に出て来たのだろう。」

 ②   「南千住砂場」の長岡さん=「江戸時代、麹町にあった曹洞宗常仙寺(寅薬師)は砂場家の菩提寺である。」

 ③   「虎ノ門砂場」の稲垣さん=「だから、最初の移住先は麹町七丁目である。」 

 【砂場家の菩提寺寅薬師】

 

 Q:なら、その「徳川家ゆかりの人物」とは誰のことか?

 その前に、「砂場」の「ゆかり」といえば、当然「大坂城」をキーワードとして考えることができる。そして「徳川家ゆかりの人物」としては「大坂城代」が挙げられるだろう。

 その大坂城代を命じられたのは、①松平忠明内藤信正(1619~26)、阿部正次(1626~47)、④永井直清(1648)、稲垣重綱(1648~49)、内藤信照(1649~52)、水野忠職(1652~54)、内藤忠興(1654~56)、松平光重(1656~58)、水野忠職(1658~59)、内藤忠興(1659~60)、松平光重(1660年~61)、水野忠職(1661~62)、青山宗俊(1662~78)らであった。

 これら大坂城代の一人が、「徳川ゆかりの人物」であるとすることは可能であろう。

 Q:なぜ最初の移住先が麹町なのか?

 江戸時代は居住地区分が厳しくて、武家地や寺社地に町人が住むことは許されなかった。それでも和泉屋が麹町七丁目に移住できたとすれば、徳川家ゆかりの人物の計いがあってのことと考えるのが自然だろう。とすれば、誰を頼って麹町七丁目に来たのだろうか。一帯の屋敷の主の中で中氏と少しでも縁のある者を探すために、麹町の古地図を広げてみよう。

 ・六丁目 ― 伊藤宗弥、山中宗竹、神谷嘉大夫、松平出羽守(雲州松江藩)、

 ・七丁目 ― 阿部銓吉郎(三河)、

 ・八丁目 ― 稲垣信濃守、舟田金十郎、仙石庄五郎、竹尾清右エ門、石巻勝五

郎、高橋藤之助、常仙寺(寅薬師)、栖岸院、

 ・九丁目 ― 紀伊殿、心法寺、井伊掃部頭、尾張殿、

 立派な武家屋敷ばかりである。(イ)先ず、紀州徳川家がある。藩祖・徳川頼宣は夏の陣にも後詰として参戦し、紀州藩主に就いてからは根来寺を庇護した。和泉屋も、根来寺→紀州藩の縁をたよりに江戸へ行った可能性がないでもない。
(ロ)次に、大坂砂場と江戸麹町が重なる人物として、稲垣氏がいる。その先祖・垣摂津守重綱は、夏の陣では〔河内方面軍二番手左備〕で戦い、戦後は五代目の大坂城代となった人である。和泉屋は稲垣摂津守重綱が大坂城代のころ(1648~49)関わりが深くなり、その後に稲垣家を頼って江戸へ出てきた可能性がないでもない。

 「和泉屋の二代目か、三代目かが、徳川ゆかりの人物(紀伊家か、稲垣家か)を頼って、江戸の麹町へやって来た」――― まだまだ灰色の砂場伝説ではあるが、も少し時間をてかければ、いつ、何のために江戸にやって来たのか?などの色取を添えた絵を描くことができるだろう。

参考:江戸ソバリエ協会編『江戸蕎麦めぐり。』(幹書房)、井蛙子著『そばやの湯筒』(朝日新聞出版サービス)、坂田孝造著『すなば物語』(大阪府麺類食堂業環境衛生同業組合)、『新編物語藩史』(新人物往来社)、NHK-TV『その時歴史が動いた ― 戦国の「ゲルニカ」』(平成20年6月25日放映)、「大坂夏の陣図屏風」、『司馬遼太郎歴史のなかの邂逅1』(中央公論社)

    〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる