<コンビニ創業戦記・附伝>「鈴木貞夫言行録」第22回

      2017/06/09  

第8章・「中内CEOを偲ぶ」(その1)

流通革命の大先達・中内CEOが、2005年(平成17年)9月に大往生されてから、もう11年が過ぎた。

近年の世情の移り変わりは、まことに目まぐるしいものがある。

あのダイエーの看板も消えるという。寂しい限りである。

私は中内さんとは同じ戌年生まれなのであるが、一回り下の後輩にあたる。

その私自身も今年82歳を超え、いつの間にか、中内CEOの亡くなられた年齢と近くなった。

これまでの人生で、数え切れないほど、先輩や友人の皆さんとの無数の出会いがあったけれども、その中で、何といっても、中内さんの存在は別格の気がする。

と云って、私が中内さんと、特に個人的に親しく、日常的にお会いしていたという関係ではない。

むしろ会合や会議の場でお会いすることが、多かったのである。

対面でじっくりとお話した記憶は、あまりない。

けれども、どこか惹きつけられる敬愛の念と、底知れぬ奥深さと同時に、人懐かしさをも感じさせる、魅力的な人物であったことは紛れも無い。

私にとっては、いつまでも中内CEOであることに変わりはない。

今のうちに書いて置かなければ、私の思い出も消えてしまうことになる。

中内CEOを偲んで、私なりのささやかな思い出を、思いつくままに書いてみることにした。

<サンチエーン時代>

最初にご挨拶したのは、、箱根小涌園で開催されていた渥美俊一先生のペガサスセミナーでの表彰式会場であった。確か、1978年(昭和53年)のTVB・サンチエーン時代のことである。

その頃のペガサスセミナーは、春秋の年2回開催が定例であった。

私は、およそ20回ほどは参加したと思う。

全国の主要チエーンの社長や幹部が、毎回、500人以上も参集する大盛況であり、広い会場が、常に異常なほど熱気に包まれていた。

中内さんは、いつも当時のダイエーグループ幹部を10数人引き連れて参加しておられ、会場の中でも目立つ存在であった。

私は、霊峰・富士を仰ぎ見るかのように、「あの人が中内さんだ」と、遠くから尊敬の眼差しで見ていたものである。

ペガサスセミナーは、渥美先生を中心に、それぞれの専門分野にわたる講師陣で編成されていた。

中でも主幹である渥美先生は、アメリカ式チエーンストア・システムを構築することを通じて、日本の流通革命を実現しようとの使命感に燃えておられた。

セミナーの度毎に、その時々のテーマにつき、常に迫力ある講義を展開されていたのである。

サンチエーンが創業1年で、100店舗出店を果たしたのは、1977年(昭和52年)11月のことであった。

今では、年間100店舗出店などは、珍しくもないが、当時は、驚異の眼で注目されたものである。

翌年のペガサスセミナーに参加した際、渥美先生に呼ばれて、【100店舗達成記念】で表彰する旨を告げられた。

中内さんは「チエーンストア最優秀経営者賞」、私が「チエーンストア100店舗達成賞」を、セミナー演壇上で晴れやかに受章した。

表彰式を終えると、中内さんは、「おめでとう」と、初めて声をかけて握手してくださったのである。

あるいは、当時のサンチエーンの急速出店に、関心を持っておられたのかもしれない。

それが、中内CEOとの最初の直接の出会いであった。

第2回目の出会いは、1979年(昭和54年)、ローソンとの業務提携の協議が整い、当時、大阪・江坂にあったダイエー江坂本社を、TVBグループ総帥・小松崎さんに同行して、中内さんを表敬訪問した時である。

その頃の中内さんは、眼光鋭く、髪も黒く、若々しいエネルギシュな風貌をしておられたように感じ、緊張したことを思いだす。

ダイエー自体が、全盛期に向かって伸び盛りにあり、「鬼ビル」といわれていたダイエー・江坂本社全体が、活気に充ちていた。

当時のダイエー戸田常務、、藤本本部長、都築ダイエー・ローソン社長など担当幹部が同席されていたが、極めて丁寧な応対をして頂いたと記憶している。

それから一月後に、東京築地の料亭・吉兆で、中内さん主宰の提携祝賀会を開いて頂いた。

「この間は,挨拶中心だったので、今日は、じっくりと意見を交換しましょう。どうぞ気楽に過してください。」とにこやかに云われ、楽しい懇談になったのを覚えている。

ダイエーグループ入りしてから間もないころ、ペガサスセミナーに参加するため新幹線小田原駅に下車した時、改札口で中内さんと鉢合わせした。

私がご挨拶すると、「車があるから、乗っていかないか」といわれて、箱根小涌園まで、

ご一緒したことがある。当時のダイエー役員・隠田さんなどが同行しておられた。

中内さんは車中で、「最近のサンチエーンの新製品は何かね」と尋ねられた。

私は「コンビニ・ハンバーガーを初めて発売しました。」と答えた。

すると、「売価はいくらか」「マクドナルドとは何が違うか」と矢継ぎ早に質問された。

私は、何とか応対しながら、これが中内流教育と人材識別法かと、冷や汗をかいた覚えがある。

後で、隠田さんに聞くと、「親父さんは、いつもあんな調子ですよ」とのことであった。

また、ペガサスセミナーの期間中に、参加しているダイエーグループ幹部との食事会を開いて頂いたこともある。

今では忘れがたい、懐かしい思い出の一つである。

鈴木貞夫言行録(第8回)参照≫

 

サンチエーン時代の中内さんの思い出をいくつか挙げてみたい。

ダイエーグループ入りしてから、、ダイエーグループ幹部訓練として当時体系的に実施されていた「ダイエーD2P訓錬」に、サンチエーン幹部数十人と共に参加したことがある。

大阪・千里にあったダイエー研修センター「ダイエー・スーパー大学」での、昭和59年10月と昭和60年9月の2回、それぞれ1週間にわたる合宿訓錬であった。

商人としての意識と行動の変革を目指すものであったと思う。

流通戦国時代を生き抜く経営の在り方、幹部のありかた、行動基準の原点を再確認を求められたと記憶している。

講師による体系的な講義や、グループ討議、クラス討論などのほか、厳しい規律訓練など、真剣に参加したことを覚えている。

全グループ幹部の研修が終わってから、中内CEO主宰のご苦労会が、各社経営執行責任者を集めて東京で開催された。

中内CEOは、開会挨拶のなかで、サンチエーンの名前を挙げて、「各社は、サンチエーンに見習え」と話された。

私は突然のことで、強烈な叱侘激励を受けたものだと感じ、緊張したことを忘れない。

7091  (サンチエーン幹部一同と) 7111  (D2P訓錬日程) 7092 (中内CEOと)

*1986年(昭和61年)11月、サンチエーン創業10周年社員総会で、中内CEOにお願いして、記念講演をして頂いたことがある。

講演の中で、中内CEOから、【「サンチエーンの24時間・年中無休営業」は、国民の暮らしを変える革命であり、文化勲章ものである。】と、過分の評価をして頂いたことは、忘れがたい記憶である。

≪「サンチエーン創業物語」(第36回37回)参照≫

7100 7101 (サンチエーン社内報10周年記念号)7102

 (  中内CEO講演パンフ)
*また、1987年(昭和62年)9月、【2001ダイエーグループの船】で、大連・天津・北京へと同行させて頂いたことがある。

船中のシンポジュームで、私がサンチエーンの将来ビジョンとして『中国一万店構想』をぶち上げたことは、当時としては夢の夢であったが、今となってみれば、実現可能性が全くないとは云い切れまいと思う。

その際、中国政府の公式迎賓館である北京「釣魚台国賓館」に宿泊し、CEO主催の晩餐会に出席させていただいたことは、真に望外の光栄であった。

「DCVS回想録」(第10回)参照≫

7093  7095  7096

(「 2001ダイエーグループの船」・アルバム集より)

7097   7099 (参加講師とグループ幹部の皆さんと)7098

(参加サンチエーン社員一同と)

7103   7104   7105

(釣魚台国賓館パンフより)

*また当時、神戸ワールド会館や、神戸オリエンタルホテル、新神戸オリエンタルなどで、毎年開催されたダイエーグループ年度方針会で、全国のダイエー・グループ幹部と共に、中内さんの獅子吼を聞くことができたことも今は懐かしい思い出である。

7106   (昭和59年度方針)7107  (昭和60年度方針)7108 (昭和61年度方針)

7109 (昭和62年度方針)7110

(昭和63年度方針)

中でも特に印象に残っているのは、1982年(昭和57年)のことであったか、京都・宝ケ池の京都国際センターで開かれたダイエーグループ全盛期を象徴する「オレンジ合衆国総会」であろうか。

当時は、マルエツ、ユニードなど、有力なローカルスーパーがダイエーグループに参加して、ますます意気熾んな中内ダイエーであり、理想の流通王国・【オレンジ合衆国宣言】がなされたのはこの時である。

今でも何か、灼熱の太陽に照らされた、輝かしい栄光の中にいるかのような、高揚した気分を味わった気がしてならない。

(以下次号・「鈴木貞夫言行録」(第23回)に続く)

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