第80話 江戸蕎麦めぐり③
藪 伝 説
老舗の蕎麦屋「藪蕎麦」さんには、ずいぶんお世話になっている。とくに本家の「かんだやぶ」さんには江戸ソバリエのシンポジウムにご登板いただいたのがきっかけとなって、その後は度々の取材に応じていただいたり、神田明神の江戸蕎麦奉納やサンフランシスコの蕎麦打ちにご一緒したりと長いお付き合いをさせていただいている。また「上野藪」さんにも当方の認定講座の講師をお願いしたし、その間いろいろと「藪」の歴史を聞かせていただいたが、蕎麦好きにとってこんな贅沢なことはないと思う。
☆堀田七兵衛一代記
「かんだやぶ」の応接室の壁紙は竹林である。写真を撮るとき「藪」の当主堀田さんは竹藪の中で撮っているようで、実に絵になる。
もともと竹は中国渡来の植物であった。といっても2000年前の大昔の話であるが、邪馬台国が九州にあったころ中国から渡ってきたため、当初の竹の生地は九州に限られていた。それが近畿に首都ができるころ竹の分布も西日本全域に広がり、そして東国に武家政権ができると日本全土に拡大していった。そして竹は今や、松や梅などと列して日本の象徴となり、竹が茂る藪も日本の各地に見られようになった。道行く人々は「あの藪の先」と目印にさえするようになった。
そんな藪が雑司ヶ谷鬼子母神の東(雑司ヶ谷1丁目)の御嶽と呼ばれる辺りに在り、そこで営んでいる蕎麦屋は「藪蕎麦」と呼ばれていたという。18世紀後半の話だが、その店の何代目かの主の名前も分かっている。戸張喜惣次(?-1825)といった。喜惣次は金工師の名流京橋後藤宗家13代延乗光孝(1721-84)の高弟で銘を「富久」としていた。戸張喜惣次富久は蕎麦が好きだった大田南畝(1749-1823)や酒井抱一(1761-1829)とも親交があり、法明寺には碑もある。
話は少し飛ぶが、雑司ヶ谷から遠くない小石川春日町に恋川春町(1744-89)という戯作者が住んでおり、彼は蕎麦を題材にした『うどんそば化物大江山』という大人の童話を書いている。もしかしたら春町も、近くの雑司ヶ谷に藪蕎麦を食べに来たかもしれない、などと想像してミニ小説を書いたことがあるが・・・・・・。
それはともかくとして、次に有名な藪蕎麦が、19世紀初頭にあったとされている「深川藪の内」(江東区三好町4丁目辺り) である。その庭には古池もあって、風味まことによかったというが、この藪については詳細は伝わっていない。
さらに、駒込千駄木町団子坂下の「蔦屋」が「藪」と呼ばれていた。三輪伝次郎という元武士が主で、広大な敷地には滝も落ちていて、背後には竹藪があったので通称「団子坂藪」と称されていたという。ところが、この三代目が相場で失敗、廃業に追い込まれた。そこに登場するのが浅草蔵前の蕎麦屋「中砂」4代目の堀田七兵衛である。七兵衛は「団子坂藪」の神田連雀町支店を買い取って「神田藪蕎麦」を創業した。明治13年のことであった。だが、この「中砂」とはいったい何だろうか? 堀田さんは「砂場が三軒って、その眞ん中の店だったから、と聞いている」とおっしゃる。しかし、「砂場」の先祖は『江戸蕎麦めぐり①』で述べたように中氏といったから、「中氏の砂場」という意味であってほしいと私は思っている。
ところで私は、「藪」の創業者七兵衛さんは戦国武将のような人だったと想像している。四人の妹や子供たちは全て蕎麦屋となって暖簾が広がっていき、その中から「並木藪蕎麦」「池の端藪蕎麦」の名店が生まれて「藪」は一大勢力を築き上げていったのである。
また話は変わる。明治維新と聞けば、それで何もかもが引っくり返ったかのように思われているが、案外そうでもない。維新によって変わったのは政治体制だけであり、その後の日清戦争の勝利によってはじめて国民の生活が潤い、そして日露戦争の勝利によって日本の産業はやっと近代化していったのである。
そして、その産業の勃興にともなって各業界においては同業組合組織運動が活発化していった。麺業界においても明治45年「東京蕎麦饂飩商組合」(現在:東京都麺類協同組合)が設立され、その初代組合長に堀田七兵衛が就いた。
七兵衛は一代にして頂点に立ったのである。
参考:江戸ソバリエ協会編『江戸蕎麦めぐり。』(幹書房)、御嶽山清龍院住職の話、日新舎友蕎子『蕎麦全書』、『拾遺江戸砂子』、『続江戸砂子』、『拾遺江戸砂子』、恋川春町『うどんそば化物大江山』、法明寺(雑司ヶ谷)、潮泉寺(本駒込)、堀田平七郎『そばや今昔』(中公新書)、ほしひかる『蕎麦夜噺』第23夜(「日本そば新聞」平成20年9月10月号)、沖浦和光『竹の民族誌』(岩波新書)、
〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる〕