第93話 あなたは粋な食通ですか?

     

「江戸ソバリエ」誕生()

 

☆「陶然亭」 

 「冠木門脇の建仁寺垣」だというから屋根のない門柱に竹垣の店である。しかも垣根の中からは『水滸伝』の挿絵に見かける酒帘のような魚尾形の尾を垂れた細長い小旗に「湯豆腐 ちり鍋 蓬莱鍋」と記し、竿頭に千生瓢箪を倒に挿してあるという。

 京都の高台寺の北側、少しの間、私は伝説の料理屋「陶然亭」を探して歩いてみたが見当たらない。

 それもそのはず青木正児が隠れ家「陶然亭」を紹介したのは、私が幼児のころの昭和21、22年である。

 青木正児(1887-1964)は中国文学研究家であった。彼の『華国風味』における粉や餅についての論は、その道の先駆的なものであるから、蕎麦通なら一度は目を通すべきである。

 ただ、私が注目したのは『華国風味』ではなく、それに附いている『陶然亭』の中の次の場面であった。

  ~ 浅草海苔を一枚炙って揉んで小皿に入れ、花鰹を一撮みつまみ込んで醤油をかけ、擦山葵を比較的多量に副え、澗酒と共に差出しされたものに感動した。花鰹の味と、海苔の香りと、山葵の鼻をつく新鮮な気が、酒の肴としての要件が十分備わっていたからだ ~ 。

  この文に出会ったとき私は、『本朝食鑑』の「およそ食に形あり、色あり、気あり」という言葉を思い出し、この説は日本料理の神髄ではないかと思った。つまり「香り」は和食の共通因子ではないかというわけである。

 蕎麦の世界に目を転じれば、蕎麦と汁については語られるが、薬味についての意味づけはあまりなされていない。だから、青木正児流に「蕎麦の香りと、汁の味と、薬味の気」と論じれば、江戸蕎麦学が立派に成り立つであろう。

  平成15年、江戸ソバリエ認定事業に踏み切った理由のひとつは、この二冊の本(『本朝食鑑』、「陶然亭」)に後押しされてのことであった。

 

 ☆「田舎亭」

 大阪の北船場、番地でいえば内北浜4丁目の細い路次の奥に、ちいさな角行燈に楷書で「田舎亭」と書いてあるささやかな家がある。これが大久保恒次の紹介する隠れ家である。店主は「陶然亭」の舎弟にあたるという。

 船場に行ったとき、やはり探してみたが見当たらない。大久保が「田舎亭」を紹介したのは昭和32年である。無理もないと思った。

 大久保恒次(1897-1983)は朝日新聞社勤務をへてフリーになった。著書の『うまいもん巡礼』 (1956年) 、『上方の味』 (1962年)、 『フォトあまカラ帖』 (1964年)、『瓢亭 ― 京料理』 (1964年)、『うまいもの歳事記』 (1973年)、『生活の随筆2「味」』などを見ても、大阪出身だけあって関西の味にこだわっている。その彼が「穴子は大阪湾のが良いとされている」と書いているが、ちょうど今日、私が通っている「江戸蕎麦ほそ川」の店主が「穴子は大阪が一番旨い」と教えてくれたばかりであった。「ほそ川」の細川貴志さんは食材に拘る料理人であるから、大久保の本も信用できると思った。また大久保は「夏の赤い味噌汁、冬の白い味噌汁」を推奨しているが、これにも「成程!」と思った。映画監督の羽仁進が「昼は白ワイン、夜は赤ワインを」と説いていて、その理屈の通った対比が「面白い!」と感心したことを思い出したからだ。

 

☆「柳亭」

 東京、麻布十番の外れ、二ノ橋の花街の奥。目当てにするのは一本の柳、その柳の下を這入った暗い路地に、ぽつんと角行灯がともっている。目を凝らして見ると四角い字で「柳亭」とある。くろく煤けた、いたって小さな店である。これが神吉拓郎 (1928~)が紹介する隠れ家である。

 東京の話だから、とうぜん江戸料理の店である。神吉は「江戸前の海が死んだとき、江戸の料理はなくなった」としながらも、「柳亭」では茹で立ての熱い蝦蛄、蛤の鮨、寒中の黒鮪に生海苔、夏から秋にかけての鰹、小鰭や鯖、五月の空豆・・・・・にお目にかかることができると書いている。私は「江戸前料理 なべ家」の福田浩先生の顔を思い浮かべながら、文字を目で追い、その料理を頭に描いた。

 作者の神吉さんは大久保恒次が好きで彼の書いた物を集めているらしい。「陶然亭」と「田舎亭」も本棚に一緒に並べていたという。

  実は、青木正児の「陶然亭」、大久保恒次「田舎亭」、神吉拓郎の「柳亭」の三軒の隠れ家をセットにしてご紹介したのは、食通の皆様にぜひこの三冊を読んでほしいのである。

 ただし、この三冊の読み方は、「陶然亭」⇒「田舎亭」⇒「柳亭」の順でなければならない。なぜなら、最後の神吉拓郎氏は、著書の中で「陶然亭」と「田舎亭」の正体をドンデン返しを仕掛けて暴露しているのである。

 そのことは本を読んでのお楽しみであるが、読む順番を手抜きすれば、手品の種を知ってから手品を見るようなもので、あなたは食通とはいえないただの野暮な人ということになる。

  そういえば・・・・・・、近ごろ京都の東山に「陶然亭」という店が現れたらしい。

参考:「江戸ソバリエ」誕生(第46、50、51、53、54、57、58、60、82話)、青木正児「陶然亭」(岩波文庫)、大久保恒次「田舎亭」(柴田書店)、神吉拓郎「二ノ橋 柳亭」(文春文庫)、青木正児『華国風味』(岩波文庫)、人見必大『本朝食鑑』(平凡社)、幸田露伴『運命論』(岩波文庫)、羽仁進『ぼくのワイン・ストーリー』(中公文庫)、

〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる