第100話 さらば友よ!

     

 

 平成23年6月。突然、学生時代の友人N君の訃報が飛び込んできた。

 彼とは「学友」というより「雀友」というべき仲だった。その方がほとんど毎日のように麻雀ばかりしていた当時の学生の姿をよく表わしていたし、それだけに仲がいいということだった。

 そういえば、彼とは北海道旅行の思い出もあった。昭和40年、N (山形出身)と、C (岩手出身)とH (岐阜出身)と私(佐賀出身)の 4人、21歳の夏だった。

 そうだ。確か当時のアルバムがあるはずだと思って、引っ張り出して見てみると、行程通りにキチンと写真を貼っていた。

  7/26上野発急行「みちのく」 ― 津軽海峡 ― 函館 ― 大沼 ― 洞爺湖 ― 昭和新山 ― 登別 ― 支笏湖 ― 知床半島 ― 網走原生花園 ― 阿寒湖 ― アイヌ村 ― 摩周湖 ― 屈斜路湖 ― 和琴半島 ― 層雲峡 ― 札幌 ― 朝里川 ―青函連絡船8/11、とテントを担いで野宿の17日間だった。

  そうだった。北海道は森と湖の国だった。今も記憶にあるのは、幻想的な霧の摩周湖、海辺に咲く紅い浜茄子、ゾッとするように切り立った知床岬の突端、そして硫黄の匂いに満ちた昭和新山だった。

 そうだった。赤い肌をした昭和新山は印象的だった。硫黄の煙が立ち込め、中腹には丸い石が転がっていた。この山は、昭和18年12月から2年間の火山活動によって、有珠山の麓の広大な畑作地帯だった所が、突然隆起してできた新山だと聞いた。当時は太平洋戦争の真っ最中である。国民には知らされなかったらしいが、要するにわれらと同じく成人式を終えて間もない山なのである。だから、私には忘れられない山であった。

 そうだった。あちこちに咲いていた紅い浜茄子もかわいかった。九州生まれの私にはちょっとエクゾチックな花に感じた。そんなことを思いながら、帰りの青函連絡船のデッキの上で後退りしていく北海道を見送っていたら、頭の上から紅い浜茄子の花弁が降ってきた。「おいおい、できすぎているシーンじゃないか」と見上げると、上段にももうひとつデッキがあった。そこに佇む若い女性が浜茄子の花弁を千切って撒いていたのだった。「そうか」と思って手を振ったら、その女性はスッと引っ込んでしまった。

 しかしそれ以上の感動は北海道の人たちの親切さであった。なかでも、川湯という所で出会ったことは半世紀ちかく経っても覚えている出来事だった。

 私たちは駅前の小さな食堂で夕飯を食べた。そして「今夜は近くでテントを張るのだ」とか何とか言ったのだろう。食堂の女将さんは「そうかい。近くに公園があるから、そこがいいだろう」と言って、案内してくれた。私たちはそこでテントを張って寝ることにした。ところがである。夜更けになるとシトシトと雨が降ってきたではないか。「寒い!」4人は1枚の毛布を引っ張り合っていた。そこへ女将さんが顔を出した。「雨が心配で見に来たが、このままじゃ風邪をひく。駅長に頼んでやるから、駅舎で寝なさい」と言い残し、先に駅に行って交渉してくれた。テントを畳んだ私たちが駅に着いたときは、女将さんは自宅に戻って毛布4枚をとってきてくれたときだった。「あ~、暖かい」。私たちは感激を枕に、そして木の長椅子をベッドにして毛布に包り長々となって寝たものだった。あの女将さんは、いまも元気だろうか。

 そもそもが、私という人間は、子どものころからいつも誰かとつるんでいた。竹馬の友、雀友、ゼミの友、いつも仲間と一緒だった。

 だから、あの年の夏も、北海道旅行の帰途、山形のNの実家、岩手のCの実家、そして当時同じ下宿にいた某君がいる秋田にお邪魔してから東京に戻り、数日後に故郷の九州に帰って、半月後にはゼミの合宿に参加するため今度は信州野澤温泉に出かけ、そして友と信州旅行をしたものだった。

 そのせいか、若いころから「新選組」のようなチームの物語が大好きだった。司馬遼太郎の『燃えよ剣』や安部公房の『榎本武揚』を読み、「北海道共和国」設立物語のロマンに共感していた。

  あれから私は、公私をふくめて北海道を何度も訪れたが、なぜか昭和新山だけは足を伸ばしていなかった。

 現在の北海道は、蕎麦の生産高トップの蕎麦王国である。当然、数々の蕎麦イベントも企画される。ささやかながら私も蕎麦と戯れている身だから、北海道へ行く機会が少なからずあった。つい先年も羊ケ丘や幌加内の「蕎麦まつり」に参加したり、あるいは北海道の老舗蕎麦屋「東家」の佐藤社長をお訪ねしたりしているが、私はなぜか新山に行かなかった。そのうちに必ず再訪する機会があるだろうと思いつつ、あの若くて赤い山の印象をそのまま抱き続けているのであった。

  しかし、今日だけはまるで45年昔の玉手箱を開けるようにして、アルバムの頁を捲ってみた。そこには野武士のような誠実さをもつNの顔も写っていた。

 

昭和40年の北海道旅行

 「ああ・・・。」呻きなのか、何なのか、言葉には表せない声が漏れた。捲っていくと、そのほとんどの頁が白黒の写真なのに、その中に昭和新山のカラー写真が1枚だけあった。山の色は少しボケていたがまちがいなく赤い色をしていた。

さっそく私は、私なりの弔の意味で「昭和新山」の赤い山を描いてみた。

 昭和新山☆ほしひかる

 そして思ったものだった。 「さらば友よ! しばしの別れだが、仲間同志ならいつかまた会えるさ」と。

参考:武者野小路実篤『新しき村の生活』(新潮社)、安部公房『飢餓同盟』(新長文庫)、安部公房『榎本武揚』(中公文庫)、司馬遼太郎『燃えよ剣』(新潮文庫)、新田次郎『昭和新山』(文春文庫)、

〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕