第659話 「蕎麦を粋に啜る」ということ

      2020/09/29  

~ 『世界蕎麦文学全集』物語1 ~

  新聞・テレビは今日を報道し映画は時代を伝え文学は真実を書いている、という。またサイエンスは計算が違えば、とんでもない結果を招くだろう。コンピュータはデータがなければ役に立たないものらしい。だから人間の知性と感性に彩られた文学が一番信頼性が高いといえるだろう。

 たとえば、蕎麦といえば、「粋に啜る」という印象が定着しているだろうから、これについて書かれた文学を見てみたいと思う。

 先ずは随筆家の幸田文(1904~90)は、人力車の曳手の若者が麺を食べる様に惚れ惚れしたと言っている。
   蕎麦屋の土間に立ったままで、注文があがってくると、片手におつゆの猪口を持ち、片手に割箸をとると、箸を横くわえにくわえるや、ぴっと二本に割る。それから適量の麺をはさんで引き上げ、ひょっと、ごくわずか拍子をもたせて腕を沈め加減にすると同時に、麺の先端を猪口の中へ受け、するするっとおさめてしまう。鮮やかである。

 また画家の篠田桃紅(1913~)は、蕎麦好きが蕎麦を啜って食べることについてこう書いている。
   その啜り込みが意識的でなく、胃の方からさしのべる無形の力で、蕎麦猪口を前にしたとたんに、知らず知らずのうちにいい具合の呼吸が生じるものらしい。・・・そういう すいすいしたリズミカルな音が・・・。 
   篠田の、胃の方からさしのべる無形の力とか、呼吸というのは上手い表現だと感嘆してしまう。とくに呼吸という点では、映画監督の武智鉄二(1912~88)が、粋は息で、元は肉体に密着した呼吸作用だと述べている。「啜るのことは息」ということでは武智と篠田は同様の見方ではないかと思う。

 さらに、両者の言い分には、単に食べ方だけではなく、ということも大事であることについて触れている。

 幸田は、蕎麦屋の土間に立ったままで、・・・私の眼にしみたのは、手や口の颯爽さもありますが、しかし足なのです。片足をちょいと腰掛の桟へのせているのが、なんともカッコよく、惚れ惚れしたと述べている。

  篠田は、お蕎麦は土間とか、上り框とか、駅停車の束の間とかに食べるものだと言っている。

 かように二人の芸術家は、粋ということについて、下品ぎりぎりの位置であか抜けている様と見たようだが、知性と感性がものの本質をとらえた例であると思う。

 それに、この二人の女性は異性を見て、粋を感じている。
   そういう点では、九鬼周造自身も外国人女性に会ったとき日本の粋を思い、さらに芸者を通して粋を哲学した。
   したがって、粋というのは異性あって成り立つ美学であるようだ。

 以上が文学から見た粋の本質ということになるだろう。

【世界蕎麦文学全集】
1.幸田文『ソーメン』
2.篠田桃紅『おそばについて』
3.九鬼周造『「いき」の構造』

文 ☆ 江戸ソバリエ認定委員長 ほしひかる
写真:画家甲斐巳八郎(1903~79)作の蕎麦猪口(ほし所蔵)。