第144話「蕎麦切、当国より始まると云う」

     

蕎人伝松江重頼

 

 講演会などで「蕎麦は中国から渡ってきた」とお話しても、あまり信じられない。「蕎麦は信州が発祥の地、あるいは信州が本場だ」と思っている人はあんがい多い。その風評の源のひとつが、松江重頼が編した貞門俳諧の方式の書『毛吹草』だろう。それには「蕎麦切、当国より始まると云う」と書かれてある。

 その手柄??? により、彼を当シリーズ「蕎人伝」に列したいと思う。

 松江重頼(1602-80)は、もともとは京の大文字屋治右衛門という商人であったが、貞門派俳諧の祖・松永貞徳(1571-1654)に師事し、七俳仙(野々口立圃、松江重頼、山本西武、鶏冠井令徳、安原貞室、高瀬梅盛)の一人と称されるまでになった。

 その七俳仙の重頼と立圃が初めは共同で、俳諧集『犬子集』の撰を進めていたが、途中二人は不和となり、重頼は単独でそれを刊行した(1633年)。

 この不和事件によって、重頼は貞門派を離れ、広く四方を行脚して諸国の名物を見聞、四季の名物、諸国の俳名物、諸国の発句を集めた『毛吹草』を刊行した。

 この諸国名物の項を眺めているとなかなか面白い。麺類は、蕎麦切2件、素麺は大徳寺(山城)、三輪(大和)、久我(武蔵)、長府(長門)、松山(伊予)の5件、饂飩は日野(近江)1件である。だから、この『毛吹草』を見るかぎり、当時の麺類の王者は素麺ということになる。他に醤油溜(河内)、節鰹(土佐)、山葵(近江)、ソバヲシキ(肥後)、白箸(山城)などの、蕎麦好きが気になる産物もたくさん記載されている。その一つひとつをさらに調べていけば楽しい事実が発見できるであろうが、それはさておく。

 われわれが気になる蕎麦については、先ず十月の項に「蕎麦刈る」とあり、「撒くは七月」とある。そして諸国の名物として、先述したように信濃武蔵の2国で蕎麦切を掲げ、信濃の蕎麦切は「当国より始まると云う」と但書している。

 発刊年は、岩波文庫版『毛吹草』を校閲した新村出は1638とし、校訂した竹内若は1645としている。判定は俳諧研究家に任せるとしても、いずれにしろ徳川3代将軍家光の代である。

 このころは『慈性日記』『中山日録』『料理物語』などがあり、それには江戸の常明寺や信州木曾街道、武蔵比企郡などで蕎麦切が食されていることが記載されてある。まさに、重頼が信濃と武蔵の名物を蕎麦切としたことと符合している。

 そして、諸国行脚の途中で信濃を訪れた際、彼は「蕎麦切は、当国より始まる」を耳にし、それを記したのだろう。しかし、彼はあるていどの知識人である。だからハッキリした根拠がない話として受け止め、一応「ト云う」とした。

 だが、こうしたことは伝言ゲームと同じで、次に伝わるときは「云う」が外れて「蕎麦切は、当国より始まる」に変化する。これが風評の正体でもある。

 それにしても重頼は京の人間である。なのに、中国から伝わった蕎麦が相国寺などの京の名刹で食されていたという史実を知らなかったようだ。

 蕎麦切のルーツも、江戸初期にはすでに遮断され、分からなくなっていたというわけである。

 貴重な史料を闇に葬ったのは、それまでの多くの戦火であったことは想像にかたくない。とくに【1400年代後半~1500年代前半】は暗黒の深い谷間である。なぜなら、多くの歴史的事柄を追っていると、たいていはこの時代の争乱が歴史を消してしまっている。

 索餅の歴史、庖丁の歴史、蕎麦の歴史等々、たいていの文化史が暗黒星雲に飲み込まれたように闇に消えているのである。

 室町の前半期ではあれほどの金銀文化を創り上げたのに、後半期ではそれを焼失させてしまったわけである。

 だが、この不連続性は、後世の昭和の戦前と戦後と相似でもあるから、まことに歴史とは、人間とは、摩訶不思議であると思わざるをえない!

参考:『毛吹草』(岩波文庫)、

蕎人伝(第134、132、106、105、104、102、99、91、88、87、82、70、65、64、62話)、

 〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる