第53話 「江戸ソバリエ」の樹

     

「江戸ソバリエ」誕生(四)

 

☆岡倉と柳の美術運動

 美術がきらいではないから、時折その関係の本を見ることがある。岡倉天心、柳宗悦、亀井勝一郎、和辻哲郎の著書はモノの見方、考え方においてずいぶん勉強になった。

 なかでも岡倉天心、柳宗悦の二人は明治・大正の美術界における偉大なるリーダーとして敬意をいだいている。その二人の大きな足跡を略記すれば次のようになるだろう。

 岡倉天心(1863~1913) ☆1881年からアーネスト・フェノロサらと日本美術や京阪地方の古美術を調査。このとき法隆寺の秘仏救世観音像の開扉に立ち会う。 188~687年、フェノロサ、浜尾新とともに東京美術学校設立のため、欧米視察旅行。1890年、東京美術学校第2代目校長。同校の美術教育で、わが国最初の体系的な「日本美術史」の講義を行ない、横山大観、下村観山、菱田春草らを育てた。1898年、日本美術院上野谷中に発足させる。著書に『東洋の理想』『東洋の覚醒』『茶の本』など。
 柳宗悦(1889~1961)☆1911年からウイリアム・ブレイクなどの宗教哲学を研究し、「信+美」の世界をつくった。1914年、我孫子市に住み、志賀直哉らを呼び、文人らが集結するきっかけをつくった。以後、バーナード・リーチ、冨本憲吉、濱田庄司、河井寛次郎らの多くの盟友を持った。1919年から朝鮮李朝陶磁器、木喰仏の研究、1926年から民藝運動を起こした。1936年、目黒区駒場日本民藝館を設立。著書に『工藝の道』『民藝とは何か』『民藝の趣旨』『美の法門』『南無阿弥陀仏』『茶道を想ふ』『茶と美』など。

 このように、岡倉は東京芸術大学の設立に関わり、後に日本美術院を創立、また柳は民藝運動を起こし、共に日本美術界における巨木のような存在になったのであるが、二人の著書を読んでみると、多くの共通点があることに気づく。

①  調査・研究の過程で自分の進むべき道を見つけ、専門家となった。

②  東洋の美を愛した

③  茶の心に注視し、日本の心を尊重した。

④  仲間とともに運動を展開した。

⑤  その運動の拠点を建設した。

 二人は日本の美術界において、常に日本人としての誇りをもち、大きな幹であり続けたからこそ、仲間が加わって大樹となったのである 

 

 ☆江戸ソバリエの幹 

 さて、江戸ソバリエの話であるが、仮に江戸ソバリエ協会の顧問として、お二人を迎えするとしたら、先生たちはこう指導するだろう。「幹を大きくせよ」と。

江戸ソバリエの幹とは、食、特に和食に関心をもち 麺、特に蕎麦を愛し 江戸蕎麦を極めようとすることである。

  ところが、われわれ凡人は現実に振り回され、幹から外れた事柄雑多な知識断片的な情報を重要なことだと勘違いしたり、何でもアリ的な考え方に妥協したりして、ついつい枝葉的なものを選択しがちである。

 それは、蕎麦打ち教室には《蕎麦打ちの先生》を迎えなければならないところを、例えば《蕎麦について書かれた文学に詳しい人》を招いたり、あるいは《江戸蕎麦学の講師》に《雑多な孫引き的話しかできない人》を招くようなことである。ただ、このように滑稽な例は分かりやすいが、日常の様々な出来事においては、それが樹木のうちの、幹か? 枝葉か? の判断を間違ったり、惑わされるたりすることは案外多い。

 そうならないために、われわれはもっと深く江戸蕎麦を知らなければならないし、もっと広く麺や和食について勉強しなければならない。

 そうすれば、枝葉が明確に分別できるだろう。

 

【「江戸ソバリエ」の樹☆ほしひかる絵】

  このような樹木ビジョンにしたがって、江戸ソバリエの皆さんが、さらに上を目指して研究的、専門的な道を歩んでいただければとの願いから始めた講座が、上級コース「江戸ソバリエ・ルシック」である。

 それ故に、江戸蕎麦の ①脳学レポート、②手打ちテスト、③食べ方コンテストのハードルは厳しい。

 しかし、おかげさまで第1回目の上級コース講座では64名の方が認定を受けられた。その中には優秀なレポートを書かれた人蕎麦打ちが名人クラスだった人、あるいは食べ方名人に選ばれた方もおられる。

  繰り返すが、江戸ソバリエのリーダーは江戸蕎麦という大きな幹を忘れずに、その年輪を重ね続ける人である。

 これからは、そのような資質をもった「江戸ソバリエ・ルシック」の方々が、リーダーシップを発揮されることを期待しているところである。

 

参考:「江戸ソバリエ」誕生 (第46話、第50話、第51話)

    〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる〕

    (次回は、9月10日に掲載予定です。)