第63話 粋な江戸蕎麦の食べ方

     

「江戸ソバリエ」誕生(七)

 

☆夏目漱石の「猫」

 「蕎麦の食べ方」について語るとき、よく世間では落語の『時蕎麦』の話がひき合いに出される。この落語は明治時代の三代目柳家小さんが上方落語の『うどん』を江戸の、蕎麦に置き換えて作ったものとされている。
 でも、「本当に、この落語が蕎麦の食べ方の最初としてふさわしい例なのだろうか?」と、何でも一応疑問をもつ癖のある私が調べたところによると、柳家小さんより前に、夏目漱石が『吾輩は猫である』(明治38年)を書いて「蕎麦の食べ方」を明確にしている。ただし、その漱石も上方落語の『そうめん』をヒントに書いたという。
 さらに、当時をよく見てみると、明治14年河竹黙阿弥が五代目尾上菊五郎のために書いた『雪日暮入谷畔道』通称「蕎麦屋」)が大人気だったらしい。

 どういう芝居かというと、主役は片岡直次郎という御家人の坊ちゃん、それがワルになって、今やお尋者。そいつが寒い寒い雪の夜に、入谷の蕎麦屋で蕎麦を食う。このシーンが当たった。というのも、主人公は今でこそ落ちぶれてはいるが元は侍だった、というところに男の美学がある。だから、蕎麦の食べ方も粋に喰わせたい、と作者は思ったのだろう。先ず、ワキ役にわざとモソモソと下手に食べさせ、そのあとに直次郎がカッコよくつるつる蕎麦を啜らせた。これが評判になったのである。

 そんなわけで、河竹黙阿弥→夏目漱石→柳家小さんと、時代的に当時は「蕎麦の食べ方」に関心があったのかもしれない。

 

☆橋本治氏の虎の巻

 江戸蕎麦の勉強会「江戸ソバリエ認定講座」を主宰していると、蕎麦の食べ方についてのご質問をよくうける。

 それに対し、漱石は『猫』でこう言っているだけでは孫引きになる。食べ方を言うとき、何かそこに理念はないだろうか。

 そういう課題をかかえているとき、橋本治「日本料理の巻」(『風雅の虎の巻』)という短いエッセイと出会った。橋本さんはこう述べていた。

 日本料理に作法はない。根本にあるものはエライ人を持て成す〝接待〟である。だから問題になるのは、上座(主賓)は誰かっといった「席次」だけ。そのメインゲストが満足すれば、接待は成功。メインゲストが不愉快になれば、失敗。そしてメインゲストの満足のなかには「どう食べようと私の勝手でしょう」がある。西洋の場合の根本は、〝一緒に食べる〟ということらしい。だから、「この卓において、我々はそれぞれに身だしなみをもった紳士を演ずる」という取り決めのようにものがテーブル・マナーだ、というのである。

 〝接待〟〝一緒に食べる〟ことの相違、これが〝〟と〝〟の各々の特質であろうが、現代日本ではもはや〝一緒に食べる〟ことに組みしなければならないであろう。

 と考えたとき、蕎麦の食べ方に精神的バックボーンを得ることができたと思った。

 しかし「私の勝手 ⇒ 一緒に食べる」への変化には、何かが介在しなければならない。その何かを考えたとき、私は日本人が誰でも口にする「頂きます」「御馳走様」(《蕎麦談義 ― 第1話》)を見直すべきだと思った。その上で、以下の三本の柱を考えた。

 (1)感謝、禮儀

 (2)和食を食べる姿勢、正しい箸の使い方

 (3)蕎麦の食べ方

 

☆DVD『粋な江戸蕎麦の食べ方』の制作

 とにもかくにも、私は『猫』と「日本料理の巻」と出会うことによって、「蕎麦の食べ方」について注視した。 

 しかし、これだけではお硬い教科書のようでまだ何か味気ない。

 そうだ! 料理には薬味のようなちょっとした決め手があるではないか。食べ方にも、そのような決め手がほしい。

 そういえば、菊五郎が『雪日暮入谷畔道』で人気をとったのは、蕎麦の食べ方がだったからではないか。そうなのだ。(3)単に江戸蕎麦の食べ方のノウハウだけではダメなのだ。(1)感謝、禮儀、(2)和食を食べる姿勢、正しい箸の使い方をふまえた上で、粋な江戸蕎麦の食べ方でなくてはならないのだ。

【蕎麦の食べ方にまつわる三作品】 

 

 それに気づいてから私は、①『麺の世界』や②江戸ソバリエ認定講座のテキストに「粋な江戸蕎麦の食べ方」を書き、その後もいろんな展開をするようになった。 

ほしひかる筆:『江戸ソバリエ認定講座テキスト』、「蕎麦談義」1、3話、『麺の世界』07年第8号、9号、10号、『埼玉のうまい蕎麦75選』(幹書房)、「江戸蕎麦の食べ方コンテスト」(『酒めん肴』10年2月号)、
ほしひかる協力:「粋な食べ方考」(08.2.2『東京新聞』)、「音は日本固有の文化」(08.2.11『アエラ』)、「ソバをすするとどうしておいしいの?」(NHKテレビ08.9.12放映『解体新ショー』)、「そばを食べる時どうして音を立てるの?」 (08.12.27『日本農業新聞』)、「江戸に学ぶ、粋な蕎麦の手繰り方」(「粋な男養成講座」-『乱TWINS』09.九月号)、「なぜ そばは音を立てて食べるの?」(09.11.10『読売新聞』夕刊)、「なぜソバはすするの?」(NHK教育テレビ09.12.15放映『トラッド・ジャパン』)、NHK『こんにちはいっと6けん』(09.12.28放映)、米山穂積作・演出『蕎麦切り』、

  そして、ついには③「粋な江戸蕎麦の食べ方」コンテスト、④DVDの制作まで行うようになったのである。

 

参考:「江戸ソバリエ」誕生(第46、50、51、53、54、57、58話)

夏目漱石著『吾輩ハ猫デアル』(大倉書店)、落語「そうめん」(東大落語会編『落語辞典』青蛙房刊)、水川隆夫著『漱石と落語』(平凡社)、内田百閒著『贋作吾輩は猫である』(福武文庫)、橋本治著『風雅の虎の巻』(ちくま文庫)、《蕎麦談義 ― 第1話》、九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)、ルイス・フロイス著『ヨーロッパ文化と日本文化』(岩波文庫)、

 

    〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる〕