第78話 カトリーヌとディアーヌ

     

 

☆カトリーヌ・ド・メディシス

 東京という所は楽しい街だ。とある日、歩いているときに「カトリーヌ・ド・メディシス」という洋菓子店を見つけたことは、「蕎麦談義」シリーズの第23話で述べた。

 カトリーヌ・ド・メディシスとは、いわずと知れたフィレンツェ・メディチ家のお姫さま。だから、少女のころはイタリア語でカテリーナ・デ・メディチ(Caterina de’ Medici:1519-1589)と呼ばれ、メディチ・リッカルディ宮やムラーティ修道院などで過ごしていた。

 それが14歳でフランス王アンリⅡ世(1519-1559)のもとに嫁いでから、フランス語でカトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Medicis)と言うようになった。 

 当時のイタリアは先進国、とくにメディチ家はダ・ヴィンチやミケランジェロなどの天才を抱えていた第一級の名家であった。対するフランスはいまだ発展途上国。カトリーヌは料理人、菓子職人、香料師、錬金術師・・・を引き連れ、イタリア文化をごっそりフランスに運んできた。トリュフやタルトも初めて伝えられ、アイスクリーム、プチ・フール、マカロン、フィンガー・ビスケットなどのイタリアのお菓子がフランスにもたらされた。また銀のナイフやフォークを使うことを教え、マナーや食卓の飾り付けも教えた。カトリーヌのフランス入りは、後世から見ると美食の国フランスの礎となったのである。

 そんなことから、洋菓子店「カトリーヌ・ド・メディシス」の店主に「〝カトリーヌ・ド・メディシス〟と名付けたところにケーキ職人の心意気を感じる」と申し上げたら、「もう私の時代もそろそろ終わったかと思っていたけど、そんなことを言われると嬉しい」とおっしゃった。

 また、そう言われると、こちらも「また、来ます」と言ってしまう。

 

☆ディアーヌ・ド・ポアチエ

 東京という所は楽しい街だ。「カトリーヌ・ド・メディシス」という洋菓子店を見つけたと思ったら、今度はディアーヌ・ド・ポアチエに出会ってしまった。

 それは友人と『サロン・ド・テ・ミュゼ・イマダミナコ』という喫茶室で、お茶を飲んだときのことであった。「何かケーキでも」と誘われてメニューを見ると、「ディアーヌのチーズケーキ」というのがあるではないか。驚きながらも、こういう発見があるからメニューは見るべきだとばかりに書いてある解説を読むと「絶世の美女ディアーヌ・ド・ポアチエが愛したチーズケーキ」と書いてある。迷うことなく私は「ディアーヌのチーズケーキ」を選んだ。

 まもなくして真っ白い皿にのってやってきたチーズケーキに、私はナイフを入れた。それは焼いたチーズケーキを冷たくしてあった。口にすると、冷たいからレアチーズのような感触はするが、レアのように生々しくはない、上品な舌触りのする美味しいケーキであった。「これがカトリーヌ妃のライバル、ディアーヌの味か」と、私は感心してしまった。

 【ディアーヌのチーズーケーキ】

   「ライバル」というのは、こういう話だ。

 アンリⅡ世のところへ嫁入りしたカトリーヌには悩ましい問題があった。実は夫には20歳上の愛妾がいたのである。それがディアーヌ・ド・ポアチエ(Diane de Poatiers:1499-1560)であった。なにせディアーヌという女性は60歳のときですら、30歳にしか見えなかったという伝説の美女である。宮廷での女の闘いは続くのであるが、それは一旦おくとして、なぜ「ディアーヌのチーズケーキ」なのかを知りたいと思った。

 友人と別れた私は書店に立ち寄り、『サロン・ド・テ・ミュゼ・イマダミナコ』のオーナー今田美奈子さんの著書を探した。

 見つけたその著書によると、16世紀のヨーロッパではすでにチーズケーキが作られていたようで、それと彼女の若さの秘訣を結びつけて今田さんは「ディアーヌのチーズケーキ」を創作されたようである。さらには、ディアーヌは林檎のガレット(蕎麦クレープ)も好んでいたのではないかと想像されている点も興味をひいた。おそらく彼女のフランスの風土や歴史を熟知した上での想像だろう。

 話を戻せば、カトリーヌとディアーヌの女の闘いは、結局は正妃であるカトリーヌのものとなったが、蕎麦ファンとしてはこう思った。

 宮邸を追われたディアーヌをガレットの女王として迎えてはどうだろうか! と。 

参考:「蕎麦談義 23 王妃 カトリーヌ・ド・メディシス」、今田美奈子『貴婦人が愛したお菓子』(角川文庫)、オルソラ・ネーミ、ヘンリー・ファースト『カトリーヌ・ド・メディシス』(中公文庫)、桐生操『王妃 カトリーヌ・ド・メディシス』(福武文庫)、ジャン=フランソワ・ルヴェル『美食の文化史』(筑摩書房)、

    〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる