第86話 江戸蕎麦めぐり⑤

     

 

老舗にみる暖簾のタイプ 

 これまで巡ってきた砂場、更科、藪、一茶庵をもう一度振り返ってみよう。

 先ず砂場であるが、いちおう砂場には南千住砂場(長岡家) という本家があり、そのなかから虎の門砂場(稲垣家)、室町砂場(村松家)が生まれたが、巴町砂場(萩原家)は別系統である。「いちおう」といったのは、砂場の和泉屋が、いつ、そして誰が、江戸にやって来たか、いまひとつ明確でないからだ。ともあれ、砂場会の会長は、現在は虎の門砂場であり、その前は巴町砂場、それ以前は南千住砂場であった。砂場の暖簾は、この三軒に室町砂場を加え、まるで毛利元就の「三本の矢」のように、束になって守っているように見える。これを「砂場タイプ」としよう。

 次の更科の場合は創業者である本家がある。麻布の堀井家がそう。1789年布屋8代目清右エ門が麻布永坂の三田稲荷の近くに、信州更科蕎麦処「布屋太兵衛」の看板を掲げた。そして11代目(更科蕎麦処としては4代目)の太兵衛が妻トモと共に店舗を拡充して、現在の「更科」グループの礎をつくった。いわば中興の祖である。世の中に存在するほとんどの組織がこのタイプである。たとえば親鸞を宗祖とする浄土真宗は、蓮如が飛躍的に発展させたという風に。このように創業者と中興の祖を時代が離れてもつケースを「更科タイプ」としよう。

 次がである。明治13年、浅草蔵前の蕎麦屋「中砂」4代目の堀田七兵衛が「団子坂藪」の神田連雀町支店を買い取って「神田藪蕎麦」を創業し、「藪四天王」や「藪御三家」を育て、一代で藪グループをつくった。堀田七兵衛は創業者と中興の祖の性質を併せもっていた。まるで戦国大名のような戦略家である。これを「藪タイプ」としよう。

  最後が一茶庵である。片倉康雄もまた堀田七兵衛と同様に創業者と中興の祖の性質を併せもっていた。しかし、片倉の成長の秘密は一子相伝から教室方式に切りかえた点にあった。幕末の、あの千葉周作道場の繁栄と似ている。千葉周作は剣道をマニュアル化し、武士だけのものであった剣道を町人・百姓にまで開放した。教室方式の片倉康雄も同様な点がある。これを「一茶庵タイプ」としよう。

 江戸蕎麦の老舗の、箸袋

 砂場、更科、藪、一茶庵、各々のタイプが江戸蕎麦の文化を創造し、守ってきた。また眼をよく凝らせば、新たなるタイプが芽生えようとしているのかもしれない。蕎麦人は気を抜けない。

 

 後記:『江戸蕎麦めぐり。』の「巻頭特集」で書き切れなかったことを、この「江戸蕎麦めぐり」シリーズで採り上げましたが、とりあえず⑤でもって一丹終止符を打ちたいと思います。

 もちろん「蕎麦談義」は積極的に続けていきます。併せて、下記の方のご愛読もよろしくお願い申し上げます。

 Ⅰ.『江戸蕎麦めぐり。』(幹書房)

Ⅱ.東京圏をもっと元気に!学会 ―「江戸東京蕎麦探訪

 http://www.gtf.tv/blog/

Ⅲ.江戸下町文化研究会 ―「コラム 江戸蕎麦めぐり」

  http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd4/

Ⅳ.『蕎麦春秋』誌(リベラルタイム出版社) ―「暖簾めぐり

Ⅴ.『日本蕎麦新聞』紙 ―「蕎麦夜噺

〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる