第95話 明日に向かって、打て!
「江戸ソバリエ」誕生(十二)
☆進化する蕎麦
皆さまは<かつ蕎麦>というのをご存知であろうか。もし初耳だったら、「二ノ橋柳亭」の著者神吉拓郎氏が他の著書で神楽坂「翁庵」(創業:明治17年)の<かつ蕎麦> を紹介しているから、行ってみるといい。
どんなものかというと、文字通り<かけ蕎麦>に<かつ>が入っており、それ一杯で満腹になるから、若い人には都合がいい。帰り際、女将さんに「<かつ蕎麦>はいつごろから?」と尋ねたら、やはり「若い学生さんのために40、50年ぐらい前から始めた」という。
似たような食感としては、多くの文士が紹介している銀座「よし田」(明治18年創業)の<コロッケ蕎麦>にちかいかもしれない。
<かつ蕎麦>の方は偶に他の店でも見かけるが、<コロッケ蕎麦>の方は現在は「よし田」にしかないだろう。ただし「よし田」の<コロッケ>は一般のものとはちょっとちがうが、それは措くとして、<かつ>も<コロッケ>も明治時代に洋風の波に乗ってわが国に入ってきて国民食となったものだ。村井弦斎が明治30年代に執筆した『食道楽』に<カツレツ>も<コロッケ>も作り方を載せているが、店としては銀座<煉瓦亭>あたりの<カツレツ>が最初であろうか。
そんな渡来物が、江戸の末期に生まれた<かけ蕎麦+天ぷら=天ぷら蕎麦> の方式にならって、⇒ <かけ蕎麦+とんかつ=かつ蕎麦>、<かけ蕎麦+コロッケ=コロッケ蕎麦>となったわけだ。
明治40年代に大阪の「東京そば」(現:目黒「朝松庵」)が開発したという<カレー南蛮>なんていうのも同様のパターンだろう。だったら、<ハンバーグ蕎麦>なんていうのもあってもいいだろうと思うが、見たことがない。
だいたいが、渡来物が国民食となったものというのは不思議ものである。<とんかつ定食>なんていったら、切ってあるから箸で食べられるし、赤だし味噌汁+おしんこ、という組み合せで、もうすっかり和食の顔をしている。<和風ハンバーグ>というやつもそうだ。擂り下ろし大根を上に載せると「和風」に変身し、なにか癒されるような錯覚に陥る。しかし、裏の厨房で手でスリスリした大根ならそうもいえるが、だいたいが刺身の妻同様に大根卸も工場で大量生産されているから、皮肉をいえば「和風」を工場生産しているようにものなのだが、われわれは「和風」という言葉にツイツイのせられてしまう。
<カレーライス>なども似たようなものだ。福神漬やラッキョウなんていう日本的な物が付いているから、何かホッとする。
ついでにいえば牛丼に紅生姜、それに味噌汁とおしんこ付き、これも完全な日本食であろう。しかもこれらは、時々妙に食べたくなる魔力を秘めているから憎い。
そもそも蕎麦の初めというものが、室町時代の寺社において初見されているところから上流階級の人の、あるいはハレの日の食べ物であったようである。それが、町人が力を付けてきた江戸時代になると、こうした寺方の蕎麦を町人たちが口にするようになり、また江戸という街が単身男性の多い街であったため、<天麩羅蕎麦>のような便利で多少ボリュームのある食べ物が人気を呼んんだ。
その<天麩羅蕎麦>がいつごろから出始めたかは明確でない。1690年ごろに<ぶっかけ蕎麦>が登場し、それが<かけ蕎麦>と言うようになったのは1789年ごろだ。一方の<天麩羅>もどきは、かなり古くからあったようではあるが、西国と東国は異なった天麩羅の歴史をもっているので、これもまたあまりはっきりしない。
いずれにしても、1827年の川柳に「沢蔵司天麩羅蕎麦が御意に入り」というのがあるから、1789年と1827年の間に生まれたのではないだろうか。
また『守貞謾稿』(1837~)には天麩羅には芝海老、貝柱、小鰭を使うともあるから、当初の天麩羅蕎麦は芝海老が主だったのかもしれない。
【澤蔵司伝説ゆかりの「萬盛」の天麩羅蕎麦】
余談だが、同じく『守貞謾稿』には握り鮨は鶏卵焼、車海老、海老そぼろ、穴子、小鰭とある。世界の海老を喰い尽すほどの日本人の海老好きはこの辺りから始まったのだろう。
話を戻すと、<かけ蕎麦+○○=○○蕎麦>というのは、だいたい若い人、あるいは単身男性向けに開発された商品である。和風出汁にちょっと油の味がする<天麩羅蕎麦>は、言い換えれば現代のラーメンのようなB級グルメのエースだったのである。
そんな蕎麦の世界に革新の火を付けた人物がいる。それが「室町砂場」三代目の村松茂と弟の亀次郎であった。彼らは<天麩羅>と<蕎麦>を分離した。つまり<天麩羅>を<ざる蕎麦のつゆ>に入れて<天ざる>という新商品にしたのである。時は昭和30年代のことらしい。
<天麩羅蕎麦>のときは卓上にあるのは丼一つ。それがいかにも大衆的な光景であったが、「室町砂場」式の<天ざる>になると卓に並ぶ物が二つになった。そして次に<つゆ>の中に入っていた<天麩羅>がさらに分離され、<天麩羅>と<蕎麦>と<つゆ>になった。しかもその<天麩羅>は海老だけにとどまらず、海の幸、山の幸へとドンドン拡がっていったのである。
かくて、今の蕎麦屋さんは「成富」のように牛蒡の天婦羅を得意とする店もあるし、「ほそ川」のように蕪や人参やトマトを得意とする店もある。油もサッパリ系で美味しい。
私は、「いい店を教えてほしい」と言われたときには蕎麦と天麩羅が美味しい店をご紹介することにしている。これだと間違いがない。
そういえば、植原路郎は著書の『食通入門』で「最近の天麩羅は衣を薄くして、天汁も淡口になっている。江戸の本当の天麩羅は浅草の『大黒屋』のようなものだ」と昭和43年に述べている。もし植原が、半世紀以上経った今の天麩羅を食べたら驚くだろう。
そんなことから、<天麩羅蕎麦>=丼で大衆コーナーに閉じ込められていた蕎麦屋さんは、<天ざる>によって解放され様々な道が示されるようになった。
今や蕎麦屋さんは、【蕎麦+天麩羅】から、【蕎麦+鮮魚】や【蕎麦+料理】、さらには【蕎麦+多国籍】へと進化しつつある。
ただ、そんなときだから少し加味してもらいたいことがある。それは〝地産食材〟の活用ということである。
☆明日の日本のために。
話は変わるが、3.11以後「東北地方は首都圏の植民地だったのか!」という論議がおきている。その論の過程から国民は過去の関係を反省しようといる。それが、今までの恩返しとして「東北地方を支援しよう」という運動につながっている。この動きは5年10年と続けなければならないだろう。
しかしながら、その先の構想としては、「東北地方の独立」も応援しなければならないだろう。ただ、そのためには関東はじめ各ブロックの独立が前提条件になってくる。こうした絵を人は「道州制」と言うかもしれない。
わが国は、平安末期から鎌倉時代にかけては、北国に藤原王国が、東国には鎌倉幕府が、西国には朝廷が、そして九州は太宰府がリーダーとして存在し、さながら4ケ国の体をなしながら、日本として一つになっていた。
それを東国の頼朝と北条氏が、北の藤原氏と西の朝廷を討って国を一つにした。明治政府は国のシンボルである皇居を東京にもってきて国を一つにした。ここに中央と地方というピラミットが構築され、地方は中央の植民地と化したのである。
社会体制に理想の型というものはないだろう。時代によって大きな政府がいいときと、小さな政府であるべきときがある。
3.11以降の日本は、深い迷霧のなかの未知の世界に入り込んでしまっている。政治はさながら応仁の乱のごとき崩壊ぶりである。
しかし、国民はあんがい冷静である。政治の崩壊は新しい日本を模索しようとする歴史の意志の表われでもあると感じている。
こういうとき、各ブロックが独立する「道州制」を検討してもよいだろう。
そして、いまよく言われているように「自分に何ができるか?」の視点をもとうとするとき、江戸ソバリエならば《江戸蕎麦》と、それに《江戸野菜》や《江戸前魚介》という〝地産食材〟の活用を通して、先ずは足元関係をかためてみたいものである。
明日を構築するために・・・・・・。
参考:「江戸ソバリエ」誕生(第46、50、51、53、54、57、58、60、82、93、94話)、ほしひかる協力「ニュースevery」(日本テレビ平成23年6月10日放映)、神吉拓郎『たべもの芳名録』(文春文庫)、吉田健一『饗宴』(ちくま文学の森)、村井弦斎『食道楽』(岩波文庫)、植原路郎『蕎麦辞典』、新島繁『蕎麦の事典』、岩満重孝『百魚歳時記』(中公文庫)、植原路郎『食通入門』(自治日報社)、
〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる〕