第133話 福猫ツアー

     

蕎人伝⑮夏目漱石

  「奥様、この猫は足の爪の先まで黒うございますから、珍しい福猫でございます」とあんま師が漱石夫人に云ったという。

 イギリス留学から帰ってきた漱石は、明治36年に文京区向丘2-20-7に引っ越してきた。家は、木造平家138㎡、6畳8畳(座敷)、6畳(書斎)、6畳(居間)、6畳(子供部屋)、3畳(お手伝部屋)だった。

 その漱石の家に、翌年の6、7月ごろから一匹の野良猫が棲みつくようになった。しかし鏡子夫人は猫嫌い、でも占いは好きだった。だから「福猫だ」と言われて、「それなら」と野良を飼うようになった。飼うといっても、猫可愛がりするわけではない。「この家にいてもいい」という許可が出たぐらいだ。でも、猫というのはそのくらいがちょうどいい。

 周りを見ると、漱石の家の、南側の車宿には「車屋の黒」がいた。北側の露地にある琴の師匠の家には「三毛子」が飼われていた。そんな環境で暮らしていた漱石は突然、暮から小説『吾輩は猫である』を執筆し始めた。

 余談だが、題名を付けたのは高浜虚子だったという。それを漱石は漢字と平仮名で『吾輩は猫である』としていたが、本として出版するにあたって表紙を担当した橋口五葉はデザイン上、カタカナを入れて『吾輩ハ猫デアル』としたらしい。

 それはともかく、この小説が大文豪夏目漱石を生むことになるのであるから、まさに野良猫は日本文学にとって「福猫」となった。小説は大ヒットした。お蔭で漱石の家はのちに「猫の家」と呼ばれるようになった。

 そればかりか、この「吾猫」は、蕎麦通にとっても「福猫」であるというのが、今日の話の目玉である。

 つまり、漱石大先生は『吾輩は猫である』の中で「蕎麦の食べ方」について述べており、それがわが国初出であることはこれまでも何度も触れてきた。よく「蕎麦の食べ方」というと落語が引き合いに出されるが、漱石先生の方が早かった。云い方を換えれば、おもしろく、おかしくではあるが、漱石先生が「江戸の蕎麦は粋に食べなければならないこと」を文学で強調したわけである。だから、「福猫」クンは蕎麦通にとっても大恩人なのであるが、この「吾猫」は西片や、早稲田に引っ越しても夏目家で飼われていた。しかし早稲田に来てから段々に痩せてきて、ついに明治40年9月13日古い竈の上に倒れて死んだ。その様を漱石は「猫の墓」に書いている。また、猫の光る目を稲妻にたとえ「此の下に 稲妻起る 宵あらん」と詠んだ。いま早稲田の漱石公園には「猫の墓」がある。しかし、漱石の次男夏目伸六の『猫の墓』によると、「吾猫」の遺骨は漱石の墓にあるらしい。

 猫の墓

漱石の像と墓

 ところで、われわれ蕎麦好きにとって、気になるのは、「大恩人の漱石先生は蕎麦が好きだったのか?」ということである。

 そんな重大な課題をいだいているとき、漱石のお孫さん(長女筆子の娘)であり、小説家半藤一利夫人であり、ご自身も作家である半藤末利子さんの講演会があった。テーマは孫から見た文豪夏目漱石のようなことだったが、『夏目家の福猫』の話でもあった。

【『吾輩ハ猫デアル』と「猫の墓」、妻猫と婿猫 の本

小猫・孫猫・弟子猫の本

 弟子の森田草平は「漱石は蕎麦が好きだった」と述べているが、ある研究家はそうではなかったというようなことを何処かに書いていた。

 「はたして、どうなんでしょうか?」と私はおそるおそる半藤末利子先生に尋ねてみた。先生は答えてくださった。「お蕎麦のことをあちこちに書いていますから、好きだったのじゃないでしょうか」と。

 そうだ!『こころ』にも、「火鉢」にも、「変化」にも、蕎麦が出ているじゃないか。それにもまして、証拠より血筋の直観というものがあるだろう。

 漱石は蕎麦が好きだったのだと、私は得心がいった。

 【オマケほし宅のベランダで生まれて当マンションに住みつき、マンションの人たちのペットとしてかわいがられているシロ】

 

福猫ツアー:猫の家(文京区向丘)、猫の墓(早稲田)、漱石の墓(雑司ヶ谷墓地)、

 ツアー手引書:ほしひかる「蕎麦談義」第63、夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』(大倉書店)、夏目漱石「猫の墓」(『夢十夜』岩波文庫)、夏目漱石『こころ』(角川文庫)、夏目漱石「火鉢」(岩波文庫)、夏目漱石「変化」(岩波文庫)、夏目鏡子述・松岡譲記「猫の家」「猫の話」「猫の出版」「猫の墓」 (『漱石の思い出』文春文庫)、夏目伸六『猫の墓』(河出文庫)、半藤未利子『夏目家の福猫』(新潮文庫)、森田草平『漱石先生と私』、内田百閒『贋作 吾輩は猫である』(福武文庫)、内田百閒『ノラや』(中公文庫)、黒澤明『まあだだよ』、文京区教育委員会『ぶんきょうの史跡めぐり』、文京区教育委員会『文京ゆかりの文人たち』、

 参考蕎人伝(第132、106、105、104、102、99、91、88、87、82、70、65、64、62話)、

〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員長 ☆ ほしひかる〕