第497話 《七夕素麺》

     

☆故郷の《素麺》

江戸ソバリエ協会が会員となっている和食文化国民会議(会長:伏木亨)から、「七夕に《素麺》を食べましょう」というメールをもらった。
和食国民会議では本年度より事業活動の大きな柱として、「五節供」に関わる食習慣の定着を推し進めているところです。
7月7日は「七夕の節供」です。是非ご家庭をはじめ様々な食シーンで「そうめん」を召し上がってください。
会員一人ひとりの行動から、習慣の輪が全国に拡がっていくことを願いつつ。”
私の家には《素麺》は常備されているから、「おやすいご用です」と返事した。
なぜ《素麺》を常備しているのか?
私は九州佐賀出身であるが、実は佐賀は麺王国である。たいていの家庭では夏の日曜日の昼は《素麺》、冬の日曜日の昼は《饂飩》、そして中高生のころの冬の夜食は《佐賀ラーメン》だった。
子供のころから、「《素麺》は黴が生えたくらいが旨い。《饂飩》は新しい方が旨い」と大人が言っているのを聞きながら、夏はガラスの器に冷たい水を張った中に《素麺》と、切った瓜や西瓜を浮かせ、腹一杯に食べたものだった。余ればそれが夕食の味噌汁の具になっていた。その時は‘’のない麺になってしまうけど、それはそれで美味しかった。
そんなわけで、夏は今も《素麺》を常備しているわけであるが、佐賀に居たのはたった18年間、東京は半世紀以上だというのに、人間の原風景というものは強いものだとわれながらしみじみと思うことがある。

☆「蕎麦は江戸を盛美とする」
ところで私は現在、「江戸ソバリエ認定講座」という蕎麦の勉強会を主宰している。そこでよく、「九州出身の貴方がなぜ《蕎麦》を好きになったのですか?」と訊かれることがある。
そういうとき「麺類が好きだから」とお答するが、本当は「子供のころから《素麺》が好きだったから」と言うべきかもしれない。
麺類好きは間違ってはいないが、どちらが好きかと問われれば、私は素麺派だった。なぜかというと、私にとっては「太いフニャフニャ《饂飩》」より「‘腰’のあるツルツル《素麺》」が好みだったのである。
長じて、東京で《蕎麦》を食べたとき、その「‘腰’とツルツル感」が口を満たしてくれた。加えて《蕎麦》の風味とつゆの旨味と切れ味に、はまったというわけである。
その後、《素麺》の‘腰’は貯蔵によって塗付油の脂質が関与して糖質が硬化するという「厄現象」によるものであることを知ったことが、麺への興味をさらに運んでくれた。

われわれの「江戸ソバリエ認定講座」で申上げている骨子は次のようなことである。
1)中国大陸の四川・雲南が起源地とする植物の蕎麦が日本列島に渡来したのは、縄文末期である。
2)鎌倉時代に宋国から碾臼が伝来し、本格的に日本人の粉食が始まった。
3)日本人の麺食(素麺・饂飩・冷麦・切麦・蕎麦切など)は室町時代の京の寺で盛んに食べられるようになったところから始まる。
4)現在の蕎麦は、江戸中期の江戸で完成した。すなわち蕎麦打ちの工夫、蕎麦つゆの開発、蕎麦屋の一品の考案、江戸人の粋な食べ方の追求などが揃い、「蕎麦は江戸を盛美とする」とまでいわれるようになった。
一般的に美味しさの基準は、甘・鹹・辛・酸・苦・渋・旨を対象とする。しかし《江戸蕎麦》はそのことより、‘喉越し’(細切・二八)と‘腰’を第一とし、そうではない《饂飩》を野暮とした。
もともと宋国から麺類が伝わったとき、《素麺》は食用油を塗って引っ張って作る乾麺だった。油を使わない麺はあまり引っ張れないから太い、それが《饂飩》の生麺である。用心しながら引っ張ったのが《冷麦》。後に切る麺が考案された、それが《切麦》である。その切麦をヒントに《蕎麦切》が誕生した。
《蕎麦切》は素麺をモデルにして、細切で、腰のある麺として江戸で完成した。
さらには、《蕎麦》をモデルとして《饂飩》も東京オリンピツクのころからフニャフニャ麺を脱して‘腰’を強調しはじめ、ラーメンもまた‘腰’を言い出して《ざるそば》と称したり《付けめん》と言ったりして、かぎりなく《蕎麦》に近づいてきた。だから、日本麺の祖は《素麺》にあると言えるかもしれない。

☆七夕と素麺
日本人の言語力は優れていて、「W杯」を「ダブリューハイ」と読む人はあまりいない。ちゃんと「ワールトカップ」と読んでくれる。
「七夕」もそうである。「七」は「タナ」と読まないし、「夕」は「バタ」とは読まないが、「七夕」はちゃんと「タナバタ」と読む。
辞書をひくと、「たなばた」は「棚機・七夕」とある。ここに「七夕」を「タナバタ」と読む秘密がある。
つまりは、中国の「棚機」という織物機の新製品と、「七夕」という行事が同時に、古代の5-6世紀頃日本に伝来したために「棚機=七夕=たなばた」となったのである。
なぜ、棚機が新製品か?というと、それまでの日本は座って織る機械「いざり機」だったが、効率のいい椅子タイプの機織が伝わって来たのだ、と麺類史研究家の伊藤汎先生(江戸ソバリエ講師)は説く。
なぜ、麺類史研究家の先生が機織についてまで述べるのか?というと、それは【外来文化】はごっそり持ち込まれるが一般的だからである。
では、何がごっそりか? 先ず織物の機械は先述の通りである。
次に臼。臼には、搗臼碾臼がある。そして搗臼にも、で搗く臼と、で踏んで搗く碓があるが、5-6世紀にその後者がもち込まれたのである。たとえば日本武尊命の名前は「小碓命」、古代ではハイカラな名前だったというわけである。
というわけで、棚機も碓も足を動力とする新製品だった。これで小麦を粉にして《麦索》を作った。麺の元始であるといえなくもない。5-6世紀の機織姫たちは、それを七夕の日に供えるという風習も大和に持ち込んだ。もちろんわが国の粉食文化は碾臼が伝来した鎌倉・室町時代以降に始まるが、その兆が足式搗碓にあるという見方である。

陰暦の七月七日、夜空を流れる天の川を見れば、川の畔で鵲たちが群舞しているだろう。牽牛と織姫の二星の姿が見えると、鵲たちが羽を並べて橋を作ろうというのである。これを「鵲の橋」という。一年に一度だけの哀しい逢瀬のための鵲たちの一助である。
この鵲は主として中国大陸・朝鮮半島や欧州などに棲息しており、基本的には日本にはいない。この点が七夕の行事が中国伝来という証である。
ただ鵲は、例外的にわが故郷佐賀にだけ棲息している不思議な鳥だ。子供のころから私は、そんな鵲を眺めながら夏の素麺を啜っていたのである。

〔文 ☆ 江戸ソバリエ協会 ほしひかる
写真:山本芳翠画の絵葉書 (手前が織姫、遠くにぼんやり見えるのが牽牛)