第140話 4月9日 蕎麦稲荷ご開帳
季蕎麦めぐり(五)
小石川に在す澤蔵司稲荷は「蕎麦稲荷」とも別称され、その伝説は広く知られているが、伝説はⅡ部構成で、よくできていると思う。
その一、1618年4月7日のこと、伝通院の廓山上人のもとに一人の修行僧が入門してきた。名を澤蔵司といい、わずか3年にして一切浄土の奥義を究めた。然るに1620年5月7日のこと、澤蔵司は廓山上人と、院の学寮主極山和尚の夢の中に現れて「私は千代田城内の稲荷大明神なり。ここに浄土の法味をうけて長年の大望が達せられた。今から元の神にかえるが、当山を永く守護するから、一社を建てて稲荷大明神を祀りなさい」と言う。さっそく廓山上人は慈眼院を建立した。
その二、とあるころ、伝通院の門前に蕎麦屋があった。澤蔵司は、そこで毎晩のようにお蕎麦を食されたという。主人もまたよく澤蔵司の徳を慕い、あるときから社前に蕎麦を献じるようになった。
以来、澤蔵司稲荷は「蕎麦稲荷」として江戸中に知れ渡り、馬琴ら多くの江戸の知識人たちまで蕎麦を奉納するようになり、川柳も詠まれた。
澤蔵司 天麩羅蕎麦が 御意に入り
この澤蔵司という僧は、江戸初期ごろ実際伝通院にいたらしい。だからといって、江戸初期の澤蔵司と江戸中期にいたってやっと町人が好むようになった蕎麦を一気に結びつけるのにはやや無理がある。
おそらく、いろんな状況が重なりあった末に「蕎麦稲荷」伝説が生まれたであろうことは、このシリーズでも述べた通りである。
つまり、いつのころか澤蔵司稲荷伝説が生まれ、 稲荷が天麩羅を好きだったところから、1827年ごろに登場した天麩羅蕎麦と結びつき、天麩羅蕎麦を含めた蕎麦の、澤蔵司稲荷となったのだろう、と。
謎解きはこれくらいにして、私たちはもっと大事なことに目を向けなければならない。
それは「伝説が今も生きている」ということにである。
伝通院門前の蕎麦屋「萬盛庵」では、その伝承をよく守り、今も毎朝、社前に蕎麦を献じているから、頭が下がる。
そんな伝説の「萬盛庵」で正直蕎麦をすするには、一年に一回の、澤蔵司稲荷のご開帳の日が最も相応しいといえるだろう。
【稲荷箱蕎麦ー萬盛庵】
参考:蕎麦談義 第122話、蕎麦夜噺第十八夜「澤蔵司天麩羅蕎麦がお気に入り」(日本そば新聞平成19年6月15日号)、
季蕎麦シリーズ(第129、130、131、136話)、
〔江戸ソバリエ認定委員長、エッセイスト ☆ ほしひかる〕