第164話 秋の上野の 蕎麦ごこち

     

 

☆蕎麦猪口ワークショップ 

 秋空に鰯雲が走り、公園の樹々は熟年になった葉が繁茂する。紅葉はまだだが、急に秋が訪れ、日々心地よい。

 辺りは上野寛永寺の傍、ここは深大寺蕎麦や戸隠蕎麦とゆかりの深いお寺だ。そう思いながら、江戸ソバリエ講師の中島(森)由美先生の「蕎麦猪口ワークショップ」に参加するため、上野桜木町へ向かった。

 会場になっている旧平櫛田中邸(台東区上野桜木2-20-3)は木造2階建、この家に平櫛は大正11年から昭和45年まで住んでいたという。

 2階へ行ったら、中島先生はいつもながらの和服姿で見えていた。そこで蕎麦猪口のお話と、蕎麦猪口の切り紙細の体験教室が催されるというわけだ。

 中島先生という方は頭のいい方で、話が論理的である。だから、先生の講義を録音して、それをテープ起こしさえすれば、そのまま本にすることができる、と私はいつも思っている。その点、私の話し方は支離滅裂だと反省の連続である。

 先生の論理思考のひとつに「整理」という視点がある。たとえば、「蕎麦猪口の文様は数多く存在しているのも事実だが、よく見てみてみると、7つの群にまとめられる。つまり、唐草、動物、山水、雪輪、氷裂、器物、幾何学、と。これが変化して多くのデザインとなって存在する。その一つである唐草は、蛸唐草文 →  花唐草文 → みじん唐草文、と変化する」とおっしゃる。他の文様も同じことが言えるのだろう。

 さて、切り紙細工の時間だ。皆さん、キチッとしたものをお作りになられるが、不器用な私は何とも無残な形をした、切り紙蕎麦の蕎麦猪口ができあがった。先生は、「切り紙シリーズのなかで、蕎麦猪口は最も難しいから、うまくいかなくてもけっして不器用ではありませんよ」と慰めてくれるから、マァこれでいいだろう。とにもかくにも、秋の日の、古民家での切り紙細工はなかなかに心地よかった。

【『切り紙 そばちょこ』】 

 

☆江戸蕎麦「蓮玉庵」 

 小腹が空いたから、蕎麦でも食べようと思って、不忍池畔を歩いて池の端に出た。上野の蕎麦の老舗といえば、「上野藪」か、「池の端藪」か、「蓮玉庵」である。

 今日は、このあとのこともあるから「蓮玉庵」(台東区上野2-8-7)にした。創業は安政6年だという。看板の字は久保田万太郎。彼は蕎麦好きだったらしく、「更科」や「まつや」などの句を残している。

 店内を見回すと、「虎の門あおい坂」の浮世絵が飾ってある。これは広重が安政4年に描いているから、「蓮玉庵」創業のころの絵だ。

 展示棚には34個の猪口がずらり。そうだった。この店は蕎麦猪口を飾ってある蕎麦屋としても有名だ。それを思い出したとき、中島先生をご案内すればよかったと思ったりした。

 江戸の老舗の蕎麦屋というのは、汁が美味しいが、「蓮玉庵」もそうだ。深みがあるけど、すっきりしている。それはこの店独自の作り方によるのかもしれない。「出汁は鰹節(亀節)だけでとる、アクを漉す、寝かせる」と6代目の澤島孝夫さんは自著の中で述べている。そういえば、私に珈琲の淹れ方を教えてくれた「下谷キャラバン」の主人も、アクのない珈琲だった。「アクが抜ければ粋になる」とは九鬼周造の論であるが、まさに「蓮玉庵」の汁は粋である。しかも汁を作るのは、主人の仕事だという。こうして老舗の味が守られている。

 そうした老舗だから、坪内逍遥ら多くの文豪が作品の中に「蓮玉庵」の名を載せているのもこの店の特徴だ。

 なかでも有名なのが、森鴎外の『鴈』である。その内容をご紹介するような野墓なことは控えたいが、『鴈』の中で「蓮玉庵」は人間以外では主人公のような存在だ。余談だが、文中の「鴈鍋」(台東区上野2丁目)とか、牛鍋屋の「豊国屋」(文京区湯島4丁目)などの肉鍋の料理屋がよく出てくるところが興味深い。この時代の食模様かなと思ったりする。

 私が座った席の真ん前の壁には昭和2年の「蓮玉庵」の写真が飾ってあった。「蓮玉庵」も両隣の店も木造2階建てだ。永井荷風の『腕くらべ』(大正6年)などを読むと「蕎麦屋の二階」というのは男と女の密会の場だったようだ。私はしばらく古い写真を見入ていた・・・・・・。

 そうすると、不忍池から微かな風にのって新内流しの三味線の音が聞こえてくるかのようだ。そこへ蕎麦前と撮みが運ばれてくれば・・・・・・、それは実に心地よい日本の風景だ。

 【『』『腕くらべ』『蕎麦の極意』】

 

 ☆新内節の夕べ『鴈』 

 蕎麦を食べてから、千駄木団子坂へ向かう。この辺りに江戸末期から明治にかけて「蔦屋」、通称「藪」という高級蕎麦屋があったことは有名だ。広い庭には滝も落ちていたそうだ。

 森鴎外の家「観潮楼」(文京区千駄木1-23-4)もあった。

銅鑼焼「観潮楼・銅鑼の音」】

 そこから少し行くと、旧安田邸(文京区千駄木5-20-18)という安田財閥の安田善次郎 → 楠雄の旧宅がある。隣は高村光雲宅、そのお隣は高村光太郎宅だった。

 そうした文化財的な所で岡本宮之助という人の「新内節の夕べ」が開催されることになっている。私は映画音楽とか、食卓の音楽とかは好きだけど、あまり演奏会にはいかない。理由は単順だ。集中力のない性格ゆえに長時間座っているのが苦手だからである。しかし、今日は親友のO.Y.さんのお薦めで、森鴎外原作・岡本文弥作の「鴈」が聞けるというので、やって来た。

 会場の旧安田邸は450坪はある。大正8年建築当時はもっと広かったらしい。邸内をぐるりと一回りすると、もちろん台所もある。隅には木製の氷室(冷蔵庫)が置いてある。床の下は食材などの保管場所になっているから、板を渡してあるだけ。だから歩くとガタガタと懐かしい音がする。

 庭では鈴虫が気持よさそうに鳴いている。やがて庭の向こうから三味線の音が聞こえてきて、近づいてくる。「新内流し」が始まったのであるが、鈴虫との協演、その風流さは感涙ものである。

 4代目岡本文弥(明治28年~平成8年)という人は新内舞踏に尽力し、作詩作曲、著作も多く、101歳まで生きた人だという。

 「鴈」もそのひとつで、鴎外の小説を10分程度の弾き語りとして脚色したものである。

 「文弥が、『鴈』を採り上げたのは、谷中に住んでいた関係からご当地モノということもあったのだろう」と宮之助さんはおっしゃるが、個人的には蕎麦がお好きだったのではないかと勝手なことを想像しながら、「鴈」と、それに続く「明烏夢の泡雪」や「十三夜」を聞いていた。

 江戸時代は、メディアとしては、絵か、文字か、語りだけである。語りの場合は、講談、落語のように楽器がないものと、琵琶、三味線を伴う弾き語りがある。これに舞踏が加われば、能、歌舞伎、人形浄瑠理となる。洋風にいえばミュージカルだ。

 よく、「三味線音楽は江戸の音楽である」という。

 琉球から伝わった蛇皮線を琵琶法師が改良したものが三味線で、後に江戸で花開いた。最初は薩摩浄雲という天才が三味線音楽を芸術的なものに仕上げたものらしい。そこから河東節、金平節、大薩摩節、義太夫節、一中節などが生まれ、

さらに一中節 → 豊後節 常盤津節 富本節 清元節

               常盤津節  新内節    

が、育っていったわけだ。

 この講図は、「蕎麦は室町時代に誕生し、江戸時代になって花が開いた」ことと似ている。だからなのか、江戸蕎麦と三味線は合うところがある。

 これまでも私は、蕎麦に合う音楽 ― ショパンだったり、モダンジャズ(特にライオネル・ハンプトン)だったり ― ということを度々述べたことがあるが、時には雨音のような、時には女の鳴き声のような三味線の音も、細い江戸蕎麦に合うことはまちがいないようだ。ただし、蕎麦+音楽だけではなく、もうひとつ情景というものがそれに加味されるだろう。木造の家屋で聞く新内だからこそ、粋で心地よいのである。

*この日はもうひとつ立ち寄った所があった。⇒ 第165話

 参考:中島由美解説『切り紙 そばちょこ』(エクスブランテ)、森林太郎『鴈』(籾山書店)、澤島孝夫『蕎麦の極意』(実業之日本社)、永井荷風『腕くらべ』(日本近代文学館)、九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)、

 〔エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員 ☆ ほしひかる