第275話 不思議な話:慶喜残月 ― 中の巻

     

慶喜邸の大銀杏

老 女 の 幽 霊

それから数ヶ月後、ヒョンなことから、「慶喜家には怖い話が伝えられている」ということをある人から聞いた。
蕎麦とは関係がなさそうだったが、慶喜家についての話なら、何でも聞いておこうと思っていた私は、またアサさんを訪ねた。
御門を入った所には今日も巡査がいた。
アサさんがお辞儀をされる。そしてまた庭の方へと案内されながら、「よござんすよ。そういうお話もどなたかに知っておいてもよろしいでしょうからね」と言ってから、例の陶製の円形の椅子に坐って、ゆっくりと口を開かれた。
先ずは「老女の幽霊」の話だった。

――― 文化六年、今風にいえば1810年のことでございます。後の十二代将軍家慶さまと六代有栖川宮織仁親王の姫、楽宮喬子姫さまのご婚礼がございました。家慶さまは十七歳、姫さまが十五歳でございます。その喬子姫さまの九つ歳下のお妹君、登美宮吉子さまはまだわずか六歳になられたばかりでした。この吉子さまが慶喜さまの母君さまでございますね。家慶さまは、後にお生まれになられた慶喜さまをたいそうお可愛がりになられ「慶」の一字をお与えになられたのでございます。
喬子さまは四年後に竹千代さま、それから続けてお二人の姫さまをお生みになられましたが、一人もご成長なさっておりません。ですから、血のつながった慶喜さまを大事になすっていたのです。

ところで、この家慶さまには大変気味の悪いお化け話がございます。
江戸城には「宇治の間」という不開の間があることはよく知られていますね。五代将軍綱吉さまが御台所の信子さまに毒殺されたとか、刺殺されたとか伝えられているお部屋でございます。
そのお部屋の前を家慶さまがお女中たちを従えて通られたときでございます。時は喜永六年六月の、ある日のことだったとか申します。その年、その月は黒船が来航し、世間では戦が始まるのではないかと騒然となっていたと聞いております。
とにかく、将軍さまがふと先をご覧になられますと、お廊下の隅に手前紋を付けた一人の老女が座っているではありませんか。
家慶さまは「あれは何者?」と訊かれましたが、だれ一人その老女を見知っている者はおりません。
そのときは女中頭の嵯峨というものが従っておりましたが、女中頭は不安な気持に襲われました。と申しますのは、「上さまに何か凶事がある前には、必ず宇治の間に前のお廊下に、手前紋を付けた老女が現れる。それが綱吉さま付きのお年寄の亡霊だ」と聞いていたからです。嵯峨は将軍さまのお顔をそっと仰ぎ見ました。すると上さまは蠟のように真っ白なお顔をされているではありませんか。嵯峨は背中に氷水を流されたようにゾッとしました。
そして、恐ろしいことに、その月の二十二日に、十二代将軍さまは薨去なさったのでございます。
慶喜さまは江戸城にお上りになられたとき、その「宇治の間」には決してお近づきにならなかったそうでございます。

〔☆ほしひかる